主に北海道の廃墟と歴史民俗事象を中心に探索撮影しています。(半ば自分用の備忘録も兼ねています) 
重要↓
当サイトでは主に廃墟と墓地を中心に扱っておりますが、どちらも郷土史研究、または美術性、雰囲気を楽しむものとしてまとめているもので、オカルトもしくは肝試しと言った目的意味合いを一切持っておりません。閲覧の際はご了承下さい。
また、文章や画像の無断転載はおやめください。


【2018年、最近のお知らせ】
・1/1 コミケ終わってたったの1日、というよか正月元日から2018年廃初め。ダメだこいつ早く何とかしないと…
・1/25 ここに書いてあった2017年の活動をまとめました。こちらからどうぞ。
http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51961456.html
・2/9 3連休が4連休になったので、西日本廃墟遠征。大戦果である。

旧京北町立宇津小学校

京都府旧京北町には以前紹介した黒田集落以外にも多く廃校が残る。黒田小学校を監理なさっていた江後さんが話を付けてくださり、今回は宇津小学校へ訪問しました。

宇津の小学校は普段自分が通らないほうの道沿いにあり、本家wikiにも一切記載がない。江後さんにその存在を示唆されるまでさっぱり知らなかった。
いつもは曲がる道をまっすぐ進む。下見とアポはもうとってあるので内部への潜入はスムーズだった。
夏だ。 アブラゼミがこれでもかというぐらい木にくっついている
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現役のころは、校庭で蝉取りをする子供たちがいたことだろう。
後で聞いたところによれば、夏にはこの横のあたりでお茶摘みを行っていたそうだ。閉校当時の在校生は卒業生を含めて32人しかいなかった。 

ずいぶんこじんまりした校舎 横に校庭があり、前には更地が。

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ポスト なんでここに
(閉校当時にここの在校生だった方によれば、昔は旧校舎の玄関に置かれており、「昔のポスト」の展示物として利用されていたそうな)
P1050101
今でも田舎に行くとこれが現役な場所がある。

さて外はこのくらいにして潜入。 …って暑いな。(そりゃあ8月上旬の密閉された建物内が暑くなかったらおかしい)
危険な廃墟でもないのでシャツ一枚で取材させていただく。

子供と大きなおともだちで目的が異なるアニメ
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作者自身そっちの気があるらしいね。

蝉の声があれだけ響いていたのに、中に入った瞬間急に静寂が訪れる。
机がすごく小さい
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今思うと低学年ってほとんど幼児と変わらないよなあ。
自分が小学1、2年の頃は高学年や中学生がものすごい大人に見えたものだ。

とりあえずトイレから。おお懐かしい
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保健室や図書室の前、手洗い場でよく見かけたこの手のポスター。

その隣の教室に入ろうとしたが開かないのでもう一つ向こうに入る
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…史料室?

こういうのって貴重なんですよ 本当に。
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よくぞ捨てないでいてくれた。

これによると今残ってる建物は別棟で、本棟(旧校舎)は取り壊したようだ。
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維持費の問題がらみで壊したんだろうか。

文集の山 ほとんどの年間文集がそろっていた。
卒業してからわかるありがたみ。
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それにしても書籍に真夏の直射日光は酷なんじゃない?

卒業生たちの落書き
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「おばけ」出るのか  学校に出るおばけなら私は大歓迎だ。

階段わきの小部屋
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たぶん物品庫だろう
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殺風景な景色だが、勉強部屋としてはけっこういい感じ。

学校の階段はどこも解放感にあふれている
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夏の昼下がりの、ゆったりとした光加減がなんとも私好み。

とりあえず右側の部屋へ
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家庭科室のようだ。
取り払われた机と配管跡 普段は見れない光景だ。
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この宇津小学校は平成16年に閉校し、周山、細野小学校と統合され京北第一小学校になったという。
黒板や電気設備からみてもそんなに古くない建物だけに、転用されていないのが惜しい。

あったなあこういう馬鹿でかいはかり
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軽くて小さいはかりがあるし、もう使わなくなっても高いお金を出して買った備品なもので、いつまでも置いておかれるんだよね。こういうの。

体育館が見える。
現役だったころは正面に本棟が構えていたんだろう
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体育館の影でユンボがなにかの作業をしていた。

向かい側は二部屋
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一つは教室
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こういうところで一日過ごしてみたい。

この日は小学校前の道を挟んで向い側にある地区の集会場で、丁度トライアスロン少年団の合宿が催されていた。教室に入るとかすかに児童と先生たちの声が聞こえる。カーテンの向こうから、歓声のような響きがカヤカヤと…
そのせいだろうか、
ふと振り向けば廊下を子供たちが走りまわっているような錯覚をおぼえる。廃校取材時独特のトリップ状態だ。学校が現役だったころと、廃校になった時代が混線してしまったような…。自分だけが虚像の校舎をさまよっているような…
そんな妙な孤独感が去来する。

微妙に平衡が崩れているけど、光が好きなので載せる
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こんな本をよく図書室やら移動図書で借りたものだ
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私の世代は、ポプラ社の『学校の怪談』シリーズが人気だった。
今はどうなんだろう。『怪談レストラン』のほうが有名なのかな。それももうかなり古いかも知れない。
『学校の階段』は最初、挿絵の画風が面白くてはまった記憶がある 前嶋先生、お元気だろうか

少しいじってみたが鳴らなかった 
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使ったらフタを閉めなさい。

さて最後は理科室。
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物品がほとんど残っている これは素晴らしい
というより、懐かしい

机になぜかメーターが
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授業説明用?

謎の実験器具が大量に眠る
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何に使うんだかさっぱり。
理科実験用具類の需要は明らかに教科書要綱の削減、または増加に左右されている。なんとも哀れだ

窓際の棚
アルコールランプとガスバーナー
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アルコールランプはホラーやサバイバル系の作品である程度需要ある気がする。ガスバーナーは持ち運びできないしな

模型 隣に耳のも
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歯はまだいいが、耳の模型はなんとも気持ちが悪い。
最初に解剖して調べた人はすごいとしか言いようがない。

食塩を溶かす実験、しましたね。
もう一つのビーカーでホウ酸を使って、飽和量の違いを調べて・・・
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光の加減がとてもいい

次に教卓
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正しい鉛筆の使い方 細かいなあ

正面棚 
こんなに大きいと
小学生では台を使っても取れないだろう。 特に最上段は
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顕微鏡 備品の顕微鏡はみんなこういう木の箱ですね
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望遠鏡と顕微鏡 
やってることは真逆でも、何か通ずるものがある。
 
左はサイフォンだろうか。 右はなんだ?
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あの瓶はなんだ 真空瓶?
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手前の傘のようなものは天体学習用

ガス管はねこそぎ抜かれていた。 当たり前といえばそこまでだが
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子供会のレク会議でもしたのだろうか
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細かいもの棚
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リトマス紙やマッチがこういう場所に入ってるのは理科室の常道。

うちの小学校にもあったな これ
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ケースのザラザラ感に病み付きになったものだ。

理科室名物人体模型さん。
顔がないほうが怖いんだが
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…で、なんで人体模型さんは男だけなの。 ねえどーしてどーしてー

酸素の発生実験は小学校で習っただろうか? 中学校ではなかっただろうか。
もしかして自分にゆとり補正がかかってるだけかもしれない。
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えーと 二酸化マンガンとオキシドールで、二酸化マンガンは触媒(?)だっけ

理科室はここらで終了。
…暑い

じゃあ涼しめの画像を
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コンデジでは遠近感がうまく出せないな… 無念。

別棟は小さいので見られる場所はこれくらい。更地になった本棟の向こうの体育館へ行く。
トイレ
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林間学校風

この向こうには校舎があったのだろう
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そして体育館
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御多分に漏れず、地域団体の活動場所になっている。
集会所のほうが新しく設備も充実もしているので、こちらはあんまり使われていないようだが。

小学生のときくらい、おもいっきり山や海で遊んだらいいと思う。
じゃないと本当に後悔する。
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恒例の校歌
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一番の終わりの歌詞はどうなのか。(中学生並の発想)

用具庫
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跳び箱が顔文字に見える。

蝉の声が絶え間なく響く。
中には、体育館の中に入ってくるものも。(死骸があったので…)
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しかし暑い。 密閉されていたためか、外のほうが幾分かましな位だった。
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ちょっとしたスペースが存在するが、昔はここに保育園があり(今は下の「ふれあい会館」前に存在) 
その後は取り壊されて教員の駐車場として利用されていたそうである。
ちなみに体育用の校庭はこの左側にある。 


以上で今回の探索は終了 理科室とカーテンの光が魅力的な場所だった。
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取材に協力してくださった江後さん、宇津自治会様 本当にありがとうございました。

家紋調査 木古内町泉澤地区、釜谷地区

木古内町、まずは泉澤の大泉寺である。
 「おおいずみでら」ではなく「だいせんじ」である。
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(大泉洋が出演している、北海道のローカル番組「1×8いこうよ」でも、昔視聴者投稿で紹介されていた )


泉澤は木古内町でも一番歴史と由緒ある地区である、なんと云ってもあの加賀前田家が入植したのだ(現在の北海殖産)
道路沿いに残る旧家もほかの地区と比べて多く、大泉寺に残る江戸時代の史料なんかも興味深い。

だが、泉澤地区の墓場は意外に狭く、分布は「五三の桐」、「丸に花菱」、「藤」、「違い鷹の羽」が多いことに変わりはない。
三つ葉柏もそこそこ多い。

『丸に切り竹笹に雀』
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 入口に存在。いきなり珍しい

家紋において「竹に雀」という組合わせはかなりポピュラーなのだけど、どうしても違和感を覚える。
雀と言えばもれなく田んぼや庭の生垣、それか民家の軒先だと思うのだが・・・

「竹林に雀がいる」というのはそんなに普遍的な光景なのでしょうか?




『亀甲に立ち沢潟』
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家紋は組み合わせの美学




『丸に篠笹』
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急いでいるからって写真の水平すらおぼつかないという体たらくはどうなのか。

 


『五つ重ね菱に中花菱』
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辞典未収録であり、正式な名称が付けられてなかったのでパーツの名前から考えた
申し訳ない




『五瓜に四ツ目』
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ちょっとかっこいい




『花橘』
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変わり上がり藤に見えなくもない

 

『ふくら雀』
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これは面白い。
紋付袴や正装用の着物に入れたらかなり目立つ。





大泉寺前の地蔵さん
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内地のような風景。

顔が欠けているけど、もしかしたらこれが「サラキの鼻欠け地蔵」なのかも
(※サラキの鼻欠け地蔵:木古内町泉澤地区のサラキ岬は古くから船の難所とされ、有名な咸臨丸を筆頭に座礁する船が後を絶たなかった。村の漁民たちはこれを鎮めようと地蔵尊を置いたがそれでも船の座礁は止まらなかった。漁民たちの間にはしだいに「船が座礁するのはあの地蔵が呼んでいるからじゃないのか」という疑念と不安が広がり、ある船頭の船が座礁したことでついに溜まっていた不満が爆発。船頭はクワを持ってこの地蔵を叩き壊そうとしたが、結局鼻が欠けたのみであった・・・ というお話)

この伝承の出所がイマイチはっきりしない。この地蔵が残っている場所も札苅の地蔵堂の中だとしているが、そんな地蔵はないと地元の人は皆語っていた。
大泉寺の住職に聞けばよかった。




場所は変わって釜谷地区

釜谷は昔上磯町に属してた地区で、他の地区と比べて若干小規模である。
お寺もない。

しかし、2003年に同時閉校された札苅、泉澤、釜谷の小学校のうち更地にされずに残っているのはいまやこの地区のみ。



墓地は墓頭数こそ少ないが、土地は広い
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サザエさんみたいな頭の人がいそうな苗字ですね。


屋号にアルファベットを入れているのもなかなか珍しい
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知る限りでは南茅部の電話帳にのっている「丸S」しか他になかった…
が、この一年間色々な場所で調査をした結果、少なからずあることがわかった。

ちなみに南茅部の電話帳は、なんと世帯名の下に屋号が載っている。
そうしないとわからないと苦情があったのだろう。ツールは場所に最適化しなくてはならない。



さて本題

あいかわらず「違い鷹の羽」、「丸に花菱」、「桐」、「藤」が多い がそもそも世帯数が少ないのでそんなに多い印象がない。

『丸に二つ引き』
この地区では上記についで多い
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この家紋は「引両」(ひきりょう)と呼ばれる種類の家紋であり、未だになにを図案化したのかよくわかっていない。
よって漢字もそれぞれ由来から「引両」、「引霊」、「引領」などさまざまあてられる。



『丸に一つ松』
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いかにも家紋という感じがする。
着物に刺繍されてるイメージがある。 




『丸に若根笹』
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ぶれすぎ
「根笹」の家紋は微妙な違いの派生種が多い



うーん・・・
『丸に三つ笹』かなあ よくわからん
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雨のお墓名物こと、ナメクジが張り付いてます

あ、上はこれですね
『三つ割篠笹』
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 『丸に細桜』
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画像が仏花とかぶり過ぎ。
追記)茂辺地で発見した同種の画像を参考してください…




釜谷の墓には墓石の後ろにサンダルや靴を置いているものが多数あった
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画像に見られるように、杖を置いてある墓石なんかも見受けられた
生前使っていたものを置いておく風習があるのだろうか。

洲原村診療所考 まとめ ver2.1

(2012年8月13日大規模改稿 ver2.0)
(2013年6月25日 少し修正、加筆 ver2.1)

 S診療所はその廃墟美の詰まった内装、残留物によって数多の廃墟ファンを魅了して来た。
 しかしその割になぜかその来歴についてはさっぱりわかっていない。この物件を取り上げている廃墟系サイトも多いが、そのほとんどが本格的に調査をしたわけでもなければ裏付けをしたわけでない情報に頼っている状況であった。あれだけ人を引き付けて止まない場所であるのに何故なのかよくわからないが、実際そうであった。
 当然自分も初めてこの廃墟を尋ねた時、なぜ廃墟になったのか。その理由は知る由も無かった。
 ならば…自分で調べてみればよい。そう思い数回にわたる現地調査と図書館に通い記したのがこの記事である。

 また、先日とある廃墟系書籍を購入したところこの物件に関する記事があったのだが… けっこう誤りがあったので寒心に耐えないというか呆れたというか、とにかくなにかの事情でわざとそうしたのかはわからないが、全国の書店で並ぶような本を書いているのだからもう少しきちんと掘り下げて調査、執筆をしてほしく思った。

 しかし私自身まだまだ調べたりない分も多いのであしからず。
 ではいきましょう。


※S診療所の近況

残念なことに以前から崩れていた二階西側と一階西側の崩壊がさらに進んでしまった。

調合室奥の居間上部、ちょうど階段横の踊り場付近まで崩落が進み、完全に空が見えてしまっている
これにより居間を通って階段へ行くことはほぼ不可能になり、奥の台所へ行くのも困難になってしまった。
あの健全なる國民の貼り紙も、数年後には…
P1060822
二階の床敷き間も崩壊寸前
写真では見えていないが、ふすまに隣接する畳が階下にダレ下がっている

こんなに傾いてしまった
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書斎部屋に入れなくなる日も近い

(2011年10月10日追記
先日さらに潜入すると、ついにこの張り紙すらも失われていた。
壁がたわんだせいで剥がれたのか、それとも誰かが剥がしたのかは不明だが、いずれにしてもこの廃墟の残存物がまた一つ失われたことにかわりはない。
「健全ナル國民」という貼り紙がなくなっているのを見たとき、この診療所に残っていた戦前の意志がとうとう死んでしまったような気がしてならなかった。

(2011年12月追記
なんと薬剤室の行李の陰に挟まっているのを発見した。
おそらく誰かが剥がすか、下に落下したものを置いておいたのだろう。目につきやすいように行李の上に置いておいたが大丈夫だろうか。

(2012年3月追記
雪や寒波で倒壊が進んでいるかと思ったがそうでもなかった。
が、以前あった「まだ二階登れるよね たぶん」という余裕を感じ取られなくなった。 脚が完全に失われて数年たち、今にも崩壊しそうだった西側屋根がもはや数ミリ単位の圧力増加で逝きそうな角度にしなり、下を歩くことはできるだけ避けたいと本能で感じた。しかし二階にいくためにはどうしてもここを通らなければならない。
一方診療スペースの戸ですら、二階の重さに耐えかねてぐにゃりとしなり曲がってしまっていた。
確かに前からしなって居たが、あそこまで程度が進んでいた記憶はない。戸にはめられたガラスすらプラスチックかなにかのようにべこんと曲がってしまっていた。あれほどガラスとは柔軟性があったか信じられなかった。
床が落ちた二階部分の危険度も冗談じゃない程度まで上がった。畳をかろうじて載せていた天井部分さえ崩れだしている始末。いくら慎重に歩いても、二階書斎に行くことは部屋東側のヘリを歩く方法でしかむりだ。
数年のちには床が完全に抜けるか傾くかで、それすら不可能になるだろう。

階段こそまだ踏み抜くような状態ではないが、二階に上ることは極力避けた方が身のためだと思う。
今でこのような状況では、今夏で二階に登ることは不可能になるのではなかろうか


さて本題です
個人名はイニシャル仮称にして伏せた。危険な薬品がいっぱいなのは変わらないことだし、プライバシーの問題もあるので。


主なS診療所の謎は以下。
・廃院時期
S診療所が廃院になった時期は今まで「終戦ごろ」、「戦中」、「戦後」など様々な意見があった。
中に残る残留物を見ると大方は戦前、戦中の品が占める。日記や新聞、家計簿の類の日付が戦前のものと確認が取れるもので全体の9割近くが埋まり、これは戦中廃院説の絶大な論拠となっていた。
しかし残りの一部には少なからず戦後のものが見受けられるのである。二階で見つけた「昭和33年」付の新聞。生活スペースへの玄関口に貼られていた「家屋調査済証 昭和36年度 美濃市」の金属証。
「監理がなされていただけで実質は廃墟状態だった」、「後に入った者が置いて行ったのでは」などと論争はつきなかった。

・なぜ物がそのままの状態で放置されたか
S診療所を物語るうえで最も大きな謎はこの「物がほぼそのまま放置された理由」である
なにしろ生活用品から日記、果ては医療用薬品やら劇薬の類までまるまる残されているのである。なにかよほどの理由があったと想像するには難くない
上にある「戦中廃院説」に伴い「軍の命令によりどこかの都市へ家族ごと出向している最中に爆撃に遭い、家系がまるまる絶えた。もともと戻ってくるつもりだったので物はそのままだった」という話を嚆矢に果ては「津山事件みたいなことがあったんじゃない?」なんていう人もいるが、後者はナンセンスと言っていいだろう。
また残っている物の偏りもおかしい。二階や一階の衣服や布団を見るとどうも家族で住んでいたようには思えないのである
一階にあった複数の行李、二階のタンス、すべて男モノの服だった。奥さんや子供さんもいたはずなのにこれはどういうことなのか

このたび現地調査、聞き取り調査をして見えてきたのは以下の事である

・S診療所としての経歴。
 S診療所―洲原村診療所が開設されたのは大正8年から大正11年の間である。当初はこの家出身のO医師によって稼働が始まった個人病院であった。
 それが昭和12年に転機が訪れる。岐阜県が地方村のため新たに県立診療所を開設することを决定し、坂本村、河合村など7ヶ所(昭和12年の日本医事年鑑ではそのうち4ヶ所、昭和15年では6ヶ所の記録が見られる)に続々と診療所が完成したのだ。 O医師は昭和13年に吉城郡河合村の診療所長として現地に赴任し、洲原村から医師が消えてしまう。
 よって県は昭和13年以降稼働がストップしたこの個人病院を、「県立」洲原村診療所とすることに決め、修繕増築し再スタートした。この時期は不明だが、診療所内に残されていた書類や公式文書から考えるに昭和13年~昭和17年のことではないかと思われる。
 つまり個人病院時代と県立病院時代の立地がまったく同じ場所なのである。「洲原村診療所」、「県立洲原村診療所」など呼称が安定しない理由はこのためなのだ。 個人病院時代から「洲原診療所」と呼ぶ者もいたのでややこしさに拍車がかかっている。

 現地の人によると診療所は現在残る家を基点に時期によって何回かの建て増しと取り壊しがなされ、戦前の時点(県立となった時期との前後は不明)で診療スペースとして庭の中に小さな建物があったという。
 これが戦中、または戦後取り壊され、裏手(今に残るS診療所の東側)に新たな建物が建てられる。それこそが「県立診療所」で、その後診療用家屋はさらにS診療所の西側に建て直された。
 
 戦中に(昭和17~18年頃とおっしゃっていた)女医が赴任し、その次に男の先生がやって来た。この先生のことを住民は「とうしやの息子」と呼んでいて(「とうし」とは篩のことだと言う)先日、とある書物の中に彼と思われる人物の名前を発見した。しかし調査が進んでいないのでまだ公表は控える。
 昭和22年頃、Tという医師が赴任する。彼は県立洲原村診療所最後の所長となった。
 彼は昭和40年までこの県立診療所で勤務したあと、数百m離れた場所に個人病院を開業した。診療所が閉鎖されるためか、それとも自ら診療所から独立する形であったのかは不明だが、とにかくこの時点をもって県立洲原村診療所は閉鎖されるに至った。
  

・地域の医療について少しばかり。
 記録によると明治5年には洲原村に医師は一名とある。それが近代的な医学の知識をもった人物であったかは定かではないが、明治31年にも一名(同一人物かは不明)の記録がある。 そして明治42年にも一名(先の人物とは別人)の在籍が確認できる。 O医師の日記によると、当時すでに現役で働いていたO医師が其の医師に自らの妹を診せていることから腕はたったようである。
 彼は明治42年を最後に記録から消える。おそらく死亡したと思われるが、その後数年間この村は無医村状態になり、再び医師がやってくるのは大正8年~11年まで待たなければならなかった。
 そのやって来た医師とは前述の通りO医師であり、その後紆余曲折を経て昭和22年にT医師が県立診療所へ赴任。昭和40年ごろに独立開業し、そのまま今の平成にまで開業医を続け現在は息子さんに代を譲っている。

 余談だが、このT医師はなかなか波乱万丈な人生を送っており、出身は函館市。
 その後満州、台湾を渡り歩き、岐阜へ引き上げたあとは最終的にこの地へ落ち付いた。 また時期的に考えてT氏とO氏は面識があったようだ。
 T医師は大正生まれの180を超える巨漢で、つい数年前まで「若いもんには負けん」を口癖に毎日現場に立つ元気なおじいさんだった。亡くなる前日まで元気はつらつと診療にあたっていたが、あくる日体調が急変。そのまま眠るように亡くなったと言う。
 ちなみに息子さんもその身長を受け継ぎ、通学用バスの乗降時は頭を屈めないといけなかったと現地の方はおっしゃっていた。


・O医師と残留物の謎
 実家であるこの地に開業したO医師の来歴と、物がのこった理由。
 明治15年に生まれた彼は、もともとこの地の有力な神社―洲原神社の社家(後述詳細記載)の長男であったが、明治39年に医師免許を取得し、日記によれば最初に岐阜県立岐阜病院(現在の岐阜県総合医療センター)に勤務した。しかしこれはすぐに辞職する。そして岐阜市に隣接した加納町に移り別の病院に勤務し始めた後、数年間神奈川県の病院に勤務した。大正年間に(異動時期は残念ながら不明瞭)岐阜県に戻り、稲葉郡吉田村で医業を務める。
 大正8年から11年内に洲原村に戻り、開業医として昭和13年までこの地の医療に尽くした後は吉城郡の県立河合村診療所長として赴任した。 また下川村にも医療拠点をもっていて、大正8年頃から昭和5年頃まで半日出張をよくしていた記録が残っている。
 『日本医籍録』によると、昭和18年には岐阜市内のとある病院に来任し、昭和29年まで在任した。彼は決して戦火に死してなどはいなかったのだ。
 地元の方によれば、その後は老齢のため退職。実家の診療所に戻って急病人があるとかけつける江戸時代の村医者のような隠居生活をたった一人で送った。
 O医師は小柄ながらも立派な方で、短く刈った頭に白いカイゼル髭をたたえていた。 口調は頑固ではなく生真面目で穏やかなとても優しい人物だったという。

 戦中、彼に診てもらった現地の方はこう語る。
 「ワシらみたいな百姓は病院行くにも高いからねえ、風邪くらいでちょくちょく行くことはできなかったからあんまりよくは覚えてないけど。 診療所の玄関くぐるとあの受付の窓口があってね。そっから看護婦さんが顔出して・・・ 薬はたいてい瓶に詰めて出してくれたよ」

 地域住民はO医師のことを親しみを込めて「ハンさん」というあだ名で呼んでいた。
 O家は当地でそれなりの地位にある旧家だったので、寄合があると必ず顔を出していた。O氏は大正~昭和13年ほどには村議会議員も務めている。
  昭和35年の正月に、彼は天寿を全うする。78歳であった。
 二階の生活スペースには血圧を下げる薬品が多く残っていた。その辺の病気だったのかもしれない。 亡くなる数日前には息子さんが体調を気遣って、彼らの家に移したそうだ。

 T医師が昭和40年まで現在に残るS診療所内に寝泊まりしていたのか、それとも別棟で暮らして居たのか、現在の開業場所に住んでいたのかは不明であるが、いずれにせよ美濃市による家屋調査票が貼られた昭和36年あたりがS診療所に人が定住していた最後の時期となったのは確かだ。

 その後も数十年間はたまに息子さんがやってきたり、今から約20年前には瓦を葺き替えるなど半分別荘状態でおかれていたようだ。
 息子さんはこの家屋をなんとか残そうとしていた。しかし資金面で難しかったそうで、その息子さんも老いるにつれ次第に倉庫という名でほったらかしのままにされ、たまたまこの場所を見つけた廃墟フリークが出入りするようになり今に至るというわけである。

 よって、S診療所内にやたらと物が残っている理由はそのまま倉庫代わりとして使われていたためで、戦後の物が多少残っているのもこのためだ。 いますぐ使うものやO氏愛用の品は息子さんがそちらの家に持って行ったので、戦後の品が少ないともいえる。
 S診療所内に「S県立診療所」という紙袋が大量に残る理由は「カリ石鹸」や「グリセリン」等一部の薬品瓶ラベルが左から右読みだったことを考えて、増築した診療用建物に保管しきれない在庫品を保管していたためではないだろうか。


・家柄について
 地元の歴史を聞いているうちに、O医師の家系が大変古くそして由緒ある物であることもわかった。
 この集落には「洲原神社」という相当に格式高い神社があるのだが、その神職として本家から分岐した三つの神主家と四つの神官家があったと古老は語った。
 これらの家は交代で神社の祭祀を取り持ち、三つの神職家は三神主家―集落内で俗に「御三家」と呼ばれ、四つの家は四神官家―神主家と合せて七軒集と呼ぶ人もいた。

 文献によると明治まで三神主家、及び四神官家にO家は含まれておらず、O家は四神官家のひとつに使える社家であった。 しかし明治維新と法整備の影響で神職を務めていた家々はやがてチリヂリになっていった。
 O家がその地位に上り詰めたのには明治維新の影響により危機に瀕した神社を護ろうとした一人の人物の功績に大きくよる。


 このへんは一朝一夕でしらべられる範疇でないので、今回はこれでとどめておきたい。
 わかったことや、今後の動向については随時追記していきます。

 最後に今回この調査に協力していただきました地域の皆様に最大の感謝を申し上げます。
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