主に北海道の廃墟と歴史民俗事象を中心に探索撮影しています。(半ば自分用の備忘録も兼ねています) 
重要↓
当サイトでは主に廃墟と墓地を中心に扱っておりますが、どちらも郷土史研究、または美術性、雰囲気を楽しむものとしてまとめているもので、オカルトもしくは肝試しと言った目的意味合いを一切持っておりません。閲覧の際はご了承下さい。
また、文章や画像の無断転載はおやめください。


【最近のお知らせ】
・1/2 コミケ帰りにさっそく2015年廃墟初め。
・1/18 ここに並べていた「2015年の主な活動」をひとまとめにしました。
http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51911446.htmlからどうぞ。
・4/20 いい加減ブログのデザインやアーカイブをわかりやすいようにしようと思い、いじくってはうまくいかず元通りにすることを繰り返している。もう外注しようぜ…。
・5/3~8 実に3年ぶりの瀬戸内の風。中国・四国廃墟遠征敢行。
・8/11~16 夏コミついでに北関東&長野廃墟遠征(ついでとは)
・9/16~20 再度の岡山・中国地方遠征をするつもりが台風の影響で急遽東北へ変更。10月の予定だったんだけど、まあええわ。

家紋調査 檜山郡厚沢部町 当路地区

厚沢部町当路(とうろ)地区は、館地区の外れから本町方面へ抜ける川沿いの道にあり、かつては林業に従事するものが畑作をかねて定住した土地だった。
現在でもその流れを受け継ぎ、農家が多い地域である。地形的には南館地区とあまり変わらず、墓もちょっとした丘の上に存在する。

・丸に右三階松
P1160271
使用家は松田さん。
どうも松田さんは松の家紋を使っている家が多い気がする。

・丸に半菊に一の字
P1160273 丸に半菊に一文字
そこそこ珍しい菊家紋。
使用家は宗像さん。

・浮線花桔梗
P1160277 浮線花桔梗
珍家紋の一つ。
道南では現在この家のみの使用を確認している。
使用家は西村さん。

・対い鶴
P1160279
一見珍しいが2、3の墓地を回れば1つは見つかるタイプの家紋。
使用家は出町さん。

・細上り藤
P1160281
上り藤が細い意匠になった。ただそれだけ。
なのにこれがなかなか珍しい。あまりに上り藤の数が多すぎて比率にするとひどい数字が出てくるだろう。
使用家は伊藤さん。

・菱に木瓜
P1160283
こちらはそこそこ珍しい。だいたいお墓7ヶ所あたりに1つくらいの割合で存在する。
使用家は平野さん。 

道南風土伝記 番外編 釧路町難読地名の名付け親を探せ!

 「分遣瀬」 「初無敵」 「冬窓床」
 これを何と読むか、わかるだろうか。

 正解は「わかちゃらせ」 「そんてき」 「ぶいま」
 
 読めと言う方が無茶なレベルの狂おしい難読地名であるが、これらはすべて北海道釧路市から釧路町、厚岸町にかけての海岸地帯に集中しており、上にあげた他にも漢字三文字の難読地名が大量に配置されている。
↓釧路町難読地名地帯付近の地図


 北海道の地名が難読であることは有名だが、ここまで酷いものが一地方にかたまってあるのはなかなか珍しい。ざっと並べるだけでも
・分遣瀬(わかちゃらせ)
・臥玆足(ふしこたん)
・別舎無(べっしゃむ)
・又飯時(またいとき)
・地嵐別(ちゃらしべつ)
・嬰寄別(あっちょろべつ)
・舳堤辺(えとろんべ)
・十町瀬(とまちせ)
・跡永賀(あとえが)
・冬窓床(ぶいま)
・仙鳳趾(せんぽうし)
 と、まるで中学生の書いた痛ノートのような字面が並んでいる。

 これらの地名は本来アイヌ語であり、漢字はその音を借りた(この場合借りたことになってないものばかりだが)にすぎない。であれば必ずいつかの時代、漢字に直した人物がいるはずなのだが、いかんせんインパクトが強すぎるためか読み方ばかり取り上げられ、その出典がどこで誰が決めたのかは書かれていない。
 北海道でも類い稀な極悪難読地名地帯を作った者は一体誰なのか。今回はそれを探ってみようという趣向である。

 道東、釧路方面へ和人が入り込み始めた時代はだいたい1600年代中ほどで、当時は松前藩(と請負商人)がアイヌの人々を使役して場所(交易や漁撈を行うところ)経営を行っていた。
 18世紀になると蝦夷地沿岸部にロシアが接近しはじめたが、松前藩にこれを警備するだけの能力はなく、危機感を覚えた江戸幕府は蝦夷地を直轄地とする。これにより、蝦夷地東岸の本格的な調査・入植が進み始め、近藤重蔵、最上徳内らの北方探検家が活躍することになる。
 幕末には北海道の名付け親・松浦武四郎による調査と記録も行われ、幕府役人や諸藩の調査員も頻繁に出入りするようになった。
 では、犯人は彼らだろうか。
 
 ところが、この予想はすぐに違うことがわかった。
 松浦武四郎の『初航蝦夷日誌』では、上に出て来る地名は全てカタカナで表記されている。
 それどころか、他の地誌や史料の中でも「昆布森」や「又飯時」など当時から人がたくさんいた集落の一部を除いて、ほぼ全ての地名は平仮名か片仮名で書かれている。

 江戸期の当地の地名が現れる史料名と、主な釧路町管内三文字地名の記載方法を表にすると、以下のようになる。
無題そんてき1

無題そんてき2
 どうやら、漢字が主に使われるようになったのは明治以降のようだ。
 
 明治時代、この地域には釧路村、桂恋村、昆布森村、仙鳳趾村、跡永賀村などがあり、それらが合併を繰り返して釧路町となった。しかし、明治5(1872)年の成立時でも仙鳳趾村は漢字ではなく「センポウジ村」が正式名称となっていた。「仙鳳趾村」と漢字になったのは明治8(1875)年。他の村々も同じであった。 
 では、いつ漢字が導入されたのか。釧路市史と釧路町史を読むとその答えらしいものを確認できた。
 明治3(1870)年に現在の釧路町字昆布森へ入植した加茂家が、周辺の入植状況と漁場を記録した『加茂家干場関係台帳』(明治9年)に「誉散別」 「浦雲泊」 「弁尺泊」など例の目が回る漢字表記が並んでいるのだ。
 さらに、釧路市史の『開拓使事業報告(明治3年とあるが、実際に編纂刊行されたのは明治18年)』を読むと、これらに加えてさらにいくつかの難読地名が並んでいる。
 また、それ以降の史料をあたると明治22年の『御子柴家文書』では「仙鳳趾村」を除いてすべてカタカナ、明治30年の5万分の1地図には「老者舞」が「オエサマブ」になっていたり、明治33年の『北海道殖民状況報文』ではすべての地名が漢字ではなくカタカナ表記になっている。
 つまり、これらの地名を漢字にしたのは加茂家とそこへ入植した漁民たちということになる。明治の行政黎明期の頃は村の地名、または字番地番の決め方がかなり曖昧かつ適当で、地元民が勝手に宛てた地名がそのまま登記や役場で使われるという事が多々あったのだ。(このため小字は際限なく増えていき、各市町村ではたびたび地番改正を行ってその整理をしてきた)
 
 加茂家は新潟県岩船郡温出村から、釧路一帯の盟主的存在だった佐野家の招きで明治3年に昆布森村へ入植し、佐野孫右衛門を支える有力な漁家として重要な地位にあった。
 『加茂家干場関係台帳』が書かれた明治9年は加茂弥惣右衛門が家長であったので、この史料も彼によって書かれたと思われる。

 もちろん、これは現在自分が当たれるだけの史料をもとの結論なので、明治5年や8年の村成立時に作られた住所や番地表記がカタカナではなく、すでに漢字にあてられていたなんてことも十分に考えられる。北海道では地名の由来の研究は盛んだが、地名が決められたシステムやその登録の経緯などはあまり研究が進んでいない分野なので、なかなかはっきりしたことが言えないのが哀しいところだ。
 また、今でこそこれらの難読三文字漢字が連続しているのは釧路町沿岸部だが、昔はさらに領域が広かったらしい。範囲を釧路市内(明治時代の釧路郡の範囲)まで広げれば、「大楽毛」 「浦離舞」 「苧田糸」 「別途前」などが並び、さらに釧路町の内陸部にも「達古武」 「雪裡太」 「双河辺」という、同じ匂いのする地名があるのだ。
 もしかすると、漁民たちはあくまでパトロンであり、真犯人は当時の釧路郡役所にいる可能性が高いような気がする…
 いづれ、そのへんのことは北海道立文書館に通いつめれば明らかにできるだろう。おって、調査を重ねたい。

 以下、『加茂家干場関係台帳』とそれ以降の史料に記載された地名一覧
無題ソンテキ4
 …うーん、何度見てもひどい。
 特に「誉惑解」 「龍双霊」 あたりには白目が止まらない。
 これらは現在、読み方すら不明になっている。 読み方が分かる方、または関連する史料をお持ちの方には是非とも情報をいただきたいところだ…

 2016/11/10追記)
 おかげさまで、これらについてもおそらくこれであろうという読み方が煮詰まって来たので、時間がある時に大きく追稿つけます。

 


 また少し長くなったが、今回は最後にこの一言で締めたいと思う。
 これ 道南と全然関係ないじゃん!!!

↓参考資料
・釧路市/編 『新釧路市史 第二巻』  昭和48年
・釧路市/編 『新釧路市史 第四巻 史料編』  昭和49年
・釧路町史編纂委員会/編 『釧路町史』 釧路町 平成2年
・「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 『角川日本地名大辞典1 北海道 上巻』 角川書店 昭和62年
・「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 『角川日本地名大辞典2 北海道 下巻』 角川書店 昭和62年
・平凡社/編 『日本歴史地名大系1 北海道の地名』 平成15年
・山田秀三/著 『北海道の地名』 北海道新聞社 昭和59年 
・新井田孫三郎/著 『寛政蝦夷乱取調日記』 寛政元年
・最上徳内/著 『東蝦夷道中記』 寛政3年
・串原正峰/著 『夷諺俗話{蝦夷俗話}』 寛政5年
・高橋壮四郎ほか/編 『蝦夷巡覧筆記』 寛政9年
・渋江長伯/著 『東游奇勝』 寛政11年
・木村謙次/著 蝦夷日記 寛政11年
・谷元旦/著 『蝦夷紀行』 寛政11年
・藤知文/著 『蝦夷の島踏』 享和元年
・羽太正養/著 『休明光記』 文化4年
・児山紀成/著 『蝦夷日記』 文化5年
・松前奉行所/編 『東蝦夷地各場所様子大概書』 文化5~8年
・荒井保恵/著 『東行漫筆』 文化6年
・文道/著 『日鑑記』 文政12年
・松前藩/編纂 『天保郷帳{松前嶋郷帳}』 天保5年
・松浦武四郎/著 『初航蝦夷日誌』 弘化2年
・松浦武四郎/著 『竹四郎廻浦日記』 安政3年
・阿部喜任/纂述 松浦武四郎/校訂 『蝦夷行程記』 安政3年
・窪田子蔵/著 『協和私役』 安政3年
・石川和助/著 『観国録』 安政3~4年
・島義勇/著 『入北記』 安政4年
・青木常之助 成石修/共著 『東徼私筆』 安政4年
・森春成 高井英一/共著 『罕有日記』 安政4年
・松浦武四郎/著 『東西蝦夷場所境取調書上』 安政5年頃
・松浦武四郎/著 『東蝦夷日誌』 文久3~5年 

 そして、史料提供をしてくださった釧路町役場の鈴木様に感謝申し上げます。

家紋調査 檜山郡厚沢部町 須賀(富里)地区墓地

 厚沢部町須賀地区は館地区最奥の場所にあたり、かつては「鷲ノ巣」と呼ばれていた。
 館地区と同じく幕末、特に慶応年間(1865~1868年)からは松前藩が農地開墾を本格化させ、明治時代になるとその関係で開拓使による屯田兵用地として民間貸下封鎖がされたが、明治10年代になると開拓の本場は石狩以北の道央道東へと移っていき、屯田兵を置くべくもないとして貸下が許可された。
 そこに入植したのが山田致人(やまだむねひと)と二木小児郎(ふたつぎしょうじろう)だった。明治時代以降、館村 はこの二人の尽力によって発展していく。
 今回訪れた須賀地区の墓地は彼ら二人が眠る場所である。
DSC_0708

 山田致人は弘化3年(1846)生、伊予国新谷藩出身の士族だ。
山田致人
 元治慶応の頃、京都へ上り鳥取藩士で後の第四代北海道庁長官北垣国道、土佐藩士の河野利鎌らと知り合い岩倉具視の下に出入りするようになった。新谷藩は尊攘派に属しており、山田が京都へ向かったのは藩命によって五条少納言らと倒幕関係のやりとりをするためだった。新谷藩は五条少納言と懇意になり、鳥羽伏見の戦いでは、錦旗奉行に命じられた彼の護衛として山田も出陣した。 
 明治2(1869)年に致人は弾正台(今の警察のような機関)に任用されたが、わずか2年で弾正台は廃止になり、その後は開拓使に出仕することになった。何度か退官出仕を繰り返しながらも、明治8年には七重官園勤務になった。七重官園は現在の七飯町に置かれていた西洋農業試験場で、殖産・牧畜・林産・養蚕またそれらにかかわる知識や技術、道具の普及生産などを目的とした施設だった。ここでの経験が元になって致人は北海道開拓の意をかためたという。
 明治11(1878)年、致人は大野村(現在の北斗市旧大野町)に移り牧場の経営に乗り出した。これは渡島地方における民間経営牧場のさきがけになり、見学者がよく訪れた。その中には後に帯広市周辺へ入植開墾する開拓功労者:依田勉三もいた。
 この頃、函館教会堂にやってきたイギリス人師司:デニングの伝道集会に参加して感激し、キリスト教の洗礼を受けた。明治15年には帰国するデニングに伴って洋行し、翌年に帰国した。
 山田はさらなる開拓耕地の拡大を目指したが、大野村周辺は既に大規模な土地の払下げが受けられるような場所はなく、茅部方面にも適地はなかった。そこで目を付けたのが厚沢部方面へ山を越えた先の館村だった。
 山田らは同志12戸をあつめて333haの土地を借り受け、明治17年に入植を開始した。一時は仲間の病気や土地を離れる者が多く出て計画は滞っていたが途中で二木小児童郎の入植もあって、開墾は着々と進んで行った。
 明治33(1900)年、山田は伊達村民たっての希望で初代村長として着任することになった。
 開拓使勤務のころ、伊達村に入植したばかりの人々約1000名は慣れない農業と寒冷な気候の前に飢餓に襲われていたのだが、これの救済措置にあったのが他でもない山田であったのだ。明治33年に一級村として発足した伊達村会議員らと村民はこの恩に報いる形で山田を村長として選任したのだった。
 しかし、着任して間もなく激務がたたって持病の肺病が再発し、翌年には退官せざるを得なくなった。
 無念のまま館村に戻った山田を待っていたのは更なる悲劇だった。長男の道太が放蕩に耽るようになっていたのだ。道太は医者を目指していたが山田と同じく肺病で健康を害して帰郷せざるを得なくなり、村中に借り受けた土地で耕作しながら静養を続ける生活を続けていた。夢破れたまま生きる中で弟と妹が結婚していきだんだん彼は心を病んでいき、父が伊達村着任を受けて家を留守にするとついにタガがはずれてしまったのだ。
 明治35年には道太が家の銀行預金に手を出して親子喧嘩になり、完全に心をすり減らした山田はついにたえかねて、自宅裏で自ら刃を立ててその生涯を閉じた。57歳であった。
 熱心なキリスト教信者で、また伝道者でもあった彼の終焉は自殺によるものであり、神意に背くとして司祭も受けられないまま家族葬も同然で葬られたという。 
 しかし、翌月に彼の死を聴き付けた榎本武揚から手紙が届いた。生前から山田と榎本は親交があり、わざわざ自分の筆蹟を刻んだ墓石を横浜から送り届けたのだ。三角形のその墓碑は今も須賀地区墓地の中ほどに立っている。
IMGP3517
 
 一方、二木小児郎は嘉永6年(1853)生まれ、薩摩国出身の士族だった。
昭和3年9月2日 二木小児郎
 16歳の時、戊辰戦争で越後に上陸し庄内藩兵と交戦した後、東京から帰郷。明治10(1877)年には西南戦争が起こり、郷党として参戦した。その後、鹿児島県会議員をつとめ、明治19(1886)年には京都の同志社で新島襄の教鞭を受けたのち、北海道開拓を決意して函館へ渡った。
 二木は入植適地を探す中でかつての友人に再開し、厚沢部の館村で山田致人や鳶川という者たちが入植したが土地は肥沃ながら不運が続いてなかなか成果を挙げないでいる話を聞き、二人を訪ねてみることを決めた。
 彼は山田、鳶川らの歓待を受け、館村内の視察を行った。山田も鳶川も二木も南国育ちのキリスト教洗礼者であることも手伝って馬があい、開拓や将来の展望をあつく語り合った。その中でさらに奥地の視察を勧められたので、厚沢部江差方面で出向いた後、札幌方面へ旅立ち、苫小牧や千歳、札幌近郊の開拓地を50日間見て歩いた後同年7月には館村へ戻った。
 札幌で二木は当時の北海道庁長官永山武四郎と懇談し、移住候補地を決めたかと問われた際「館村に入植したいが屯田兵用予定地として貸下封鎖されているのでできない」と答えたところ、「今は既に開拓が奥地へと進められており、もう道南では屯田兵を置く必要性はないと考えられるので出願すれば貸下許可が下りるであろう」という話を得た。
 二木は大変喜び、館村移住を決意した。明治21(1888)年10月10日、国有未開地無償貸下許可が下り、以降周辺に入植していた人々と協力しながら森林の伐採、開墾をすすめて行った。
 二木や山田らは開拓だけではなく、地域に出張診療所を設けたり、館小学校の創立のため資金を寄付するなど地域振興にも尽力した。そのため昭和9(1934)年には二木小児郎翁開拓記念碑が集落住民の総力で建立された。記念碑は普通その人が亡くなってから作られるものだが、それだけ住民の尊敬を得ていたという事だろう。
二木小児郎 碑
 開拓記念碑の前で孫と夫人の3人で記念撮影をする小児郎。 
 昭和14(1939)年、二木は87歳で永眠した。キリスト教者ではあったが戦時という時勢を鑑みて、神道式の葬儀を行った。
 そのためか、墓碑は仏式の四角柱型で、戒名は神式というよくわからないことになっている。
P1160209

 ちなみに小児郎の子孫は今でも富里に住んでおり、鷲ノ巣神社の近くにはその家が残っている。
IMGP3514
 手前に記念碑がある。

 さてすっかりお墓<<<集落の紹介になってしまっている気がするけど、やっていきます。
 須賀地区の墓地家紋調査です。
IMGP3522
 この十字架型の墓は二木と山田の同志であった鳶川耕三郎の墓。嘉永3(1850)年生まれ。
 伊予国出身の士族であり、函館聖公会青年会で活動していたキリスト教洗礼者であった。彼は明治43(1910)年に61歳でこの世を去ったが、3人の中では唯一己の信仰する宗教の形で葬ってもらったことになる。幸福なり。

・丸に六つ丁子
P1160207
 檜山と函館近辺ではたまに見かける家紋。
 そして、そのすべてが二木さんの関係者だったりする。 もちろん、二木小児郎もこの家紋。

・十六菊に桔梗
P1160211
 十六裏菊や旧梨本宮家の菊花紋に似ているが違う。
 菊の花の中に別の花の意匠を入れた珍しい寄木家紋。
 使用家は松橋さん。 
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