主に日本の廃墟を中心に探索撮影しています。(半ば自分用の備忘録も兼ねています)

【2020年6月現在】おしらせ
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当サイトでは主に廃墟と墓地を中心に扱っておりますが、どちらも郷土史研究、または美術性、雰囲気を楽しむものとしてまとめているもので、オカルトもしくは肝試しと言った目的意味合いを一切持っておりません。閲覧の際はご了承下さい。
また、文章や画像の無断転載はおやめください。

家紋調査 檜山郡厚沢部町 当路地区

厚沢部町当路(とうろ)地区は、館地区の外れから本町方面へ抜ける川沿いの道にあり、かつては林業に従事するものが畑作をかねて定住した土地だった。
現在でもその流れを受け継ぎ、農家が多い地域である。地形的には南館地区とあまり変わらず、墓もちょっとした丘の上に存在する。

・丸に右三階松
P1160271
使用家は松田さん。
どうも松田さんは松の家紋を使っている家が多い気がする。

・丸に半菊に一の字
P1160273 丸に半菊に一文字
そこそこ珍しい菊家紋。
使用家は宗像さん。

・浮線花桔梗
P1160277 浮線花桔梗
珍家紋の一つ。
道南では現在この家のみの使用を確認している。
使用家は西村さん。

・対い鶴
P1160279
一見珍しいが2、3の墓地を回れば1つは見つかるタイプの家紋。
使用家は出町さん。

・細上り藤
P1160281
上り藤が細い意匠になった。ただそれだけ。
なのにこれがなかなか珍しい。あまりに上り藤の数が多すぎて比率にするとひどい数字が出てくるだろう。
使用家は伊藤さん。

・菱に木瓜
P1160283
こちらはそこそこ珍しい。だいたいお墓7ヶ所あたりに1つくらいの割合で存在する。
使用家は平野さん。 

道南風土伝記 番外編 釧路町難読地名の名付け親を探せ!

 「分遣瀬」 「初無敵」 「冬窓床」
 これを何と読むか、わかるだろうか。

 正解は「わかちゃらせ」 「そんてき」 「ぶいま」
 
 読めと言う方が無茶なレベルの狂おしい難読地名であるが、これらはすべて北海道釧路市から釧路町、厚岸町にかけての海岸地帯に集中しており、上にあげた他にも漢字三文字の難読地名が大量に配置されている。
↓釧路町難読地名地帯付近の地図


 北海道の地名が難読であることは有名だが、ここまで酷いものが一地方にかたまってあるのはなかなか珍しい。ざっと並べるだけでも
・分遣瀬(わかちゃらせ)
・臥玆足(ふしこたん)
・別舎無(べっしゃむ)
・又飯時(またいとき)
・地嵐別(ちゃらしべつ)
・嬰寄別(あっちょろべつ)
・舳堤辺(えとろんべ)
・十町瀬(とまちせ)
・跡永賀(あとえが)
・冬窓床(ぶいま)
・仙鳳趾(せんぽうし)
 と、まるで中学生の書いた痛ノートのような字面が並んでいる。

 これらの地名は本来アイヌ語であり、漢字はその音を借りた(この場合借りたことになってないものばかりだが)にすぎない。であれば必ずいつかの時代、漢字に直した人物がいるはずなのだが、いかんせんインパクトが強すぎるためか読み方ばかり取り上げられ、その出典がどこで誰が決めたのかは書かれていない。
 北海道でも類い稀な極悪難読地名地帯を作った者は一体誰なのか。今回はそれを探ってみようという趣向である。

 道東、釧路方面へ和人が入り込み始めた時代はだいたい1600年代中ほどで、当時は松前藩(と請負商人)がアイヌの人々を使役して場所(交易や漁撈を行うところ)経営を行っていた。
 18世紀になると蝦夷地沿岸部にロシアが接近しはじめたが、松前藩にこれを警備するだけの能力はなく、危機感を覚えた江戸幕府は蝦夷地を直轄地とする。これにより、蝦夷地東岸の本格的な調査・入植が進み始め、近藤重蔵、最上徳内らの北方探検家が活躍することになる。
 幕末には北海道の名付け親・松浦武四郎による調査と記録も行われ、幕府役人や諸藩の調査員も頻繁に出入りするようになった。
 では、犯人は彼らだろうか。
 
 ところが、この予想はすぐに違うことがわかった。
 松浦武四郎の『初航蝦夷日誌』では、上に出て来る地名は全てカタカナで表記されている。
 それどころか、他の地誌や史料の中でも「昆布森」や「又飯時」など当時から人がたくさんいた集落の一部を除いて、ほぼ全ての地名は平仮名か片仮名で書かれている。

 江戸期の当地の地名が現れる史料名と、主な釧路町管内三文字地名の記載方法を表にすると、以下のようになる。
無題そんてき1

無題そんてき2
 どうやら、漢字が主に使われるようになったのは明治以降のようだ。
 
 明治時代、この地域には釧路村、桂恋村、昆布森村、仙鳳趾村、跡永賀村などがあり、それらが合併を繰り返して釧路町となった。しかし、明治5(1872)年の成立時でも仙鳳趾村は漢字ではなく「センポウジ村」が正式名称となっていた。「仙鳳趾村」と漢字になったのは明治8(1875)年。他の村々も同じであった。 
 では、いつ漢字が導入されたのか。釧路市史と釧路町史を読むとその答えらしいものを確認できた。
 明治3(1870)年に現在の釧路町字昆布森へ入植した加茂家が、周辺の入植状況と漁場を記録した『加茂家干場関係台帳』(明治9年)に「誉散別」 「浦雲泊」 「弁尺泊」など例の目が回る漢字表記が並んでいるのだ。
 さらに、釧路市史の『開拓使事業報告(明治3年とあるが、実際に編纂刊行されたのは明治18年)』を読むと、これらに加えてさらにいくつかの難読地名が並んでいる。
 また、それ以降の史料をあたると明治22年の『御子柴家文書』では「仙鳳趾村」を除いてすべてカタカナ、明治30年の5万分の1地図には「老者舞」が「オエサマブ」になっていたり、明治33年の『北海道殖民状況報文』ではすべての地名が漢字ではなくカタカナ表記になっている。
 つまり、これらの地名を漢字にしたのは加茂家とそこへ入植した漁民たちということになる。明治の行政黎明期の頃は村の地名、または字番地番の決め方がかなり曖昧かつ適当で、地元民が勝手に宛てた地名がそのまま登記や役場で使われるという事が多々あったのだ。(このため小字は際限なく増えていき、各市町村ではたびたび地番改正を行ってその整理をしてきた)
 
 加茂家は新潟県岩船郡温出村から、釧路一帯の盟主的存在だった佐野家の招きで明治3年に昆布森村へ入植し、佐野孫右衛門を支える有力な漁家として重要な地位にあった。
 『加茂家干場関係台帳』が書かれた明治9年は加茂弥惣右衛門が家長であったので、この史料も彼によって書かれたと思われる。

 もちろん、これは現在自分が当たれるだけの史料をもとの結論なので、明治5年や8年の村成立時に作られた住所や番地表記がカタカナではなく、すでに漢字にあてられていたなんてことも十分に考えられる。北海道では地名の由来の研究は盛んだが、地名が決められたシステムやその登録の経緯などはあまり研究が進んでいない分野なので、なかなかはっきりしたことが言えないのが哀しいところだ。
 また、今でこそこれらの難読三文字漢字が連続しているのは釧路町沿岸部だが、昔はさらに領域が広かったらしい。範囲を釧路市内(明治時代の釧路郡の範囲)まで広げれば、「大楽毛」 「浦離舞」 「苧田糸」 「別途前」などが並び、さらに釧路町の内陸部にも「達古武」 「雪裡太」 「双河辺」という、同じ匂いのする地名があるのだ。
 もしかすると、漁民たちはあくまでパトロンであり、真犯人は当時の釧路郡役所にいる可能性が高いような気がする…
 いづれ、そのへんのことは北海道立文書館に通いつめれば明らかにできるだろう。おって、調査を重ねたい。

 以下、『加茂家干場関係台帳』とそれ以降の史料に記載された地名一覧
無題ソンテキ4
 …うーん、何度見てもひどい。
 特に「誉惑解」 「龍双霊」 あたりには白目が止まらない。
 これらは現在、読み方すら不明になっている。 読み方が分かる方、または関連する史料をお持ちの方には是非とも情報をいただきたいところだ…

 2016/11/10追記)
 おかげさまで、これらについてもおそらくこれであろうという読み方が煮詰まって来たので、時間がある時に大きく追稿つけます。

 


 また少し長くなったが、今回は最後にこの一言で締めたいと思う。
 これ 道南と全然関係ないじゃん!!!

↓参考資料
・釧路市/編 『新釧路市史 第二巻』  昭和48年
・釧路市/編 『新釧路市史 第四巻 史料編』  昭和49年
・釧路町史編纂委員会/編 『釧路町史』 釧路町 平成2年
・「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 『角川日本地名大辞典1 北海道 上巻』 角川書店 昭和62年
・「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 『角川日本地名大辞典2 北海道 下巻』 角川書店 昭和62年
・平凡社/編 『日本歴史地名大系1 北海道の地名』 平成15年
・山田秀三/著 『北海道の地名』 北海道新聞社 昭和59年 
・新井田孫三郎/著 『寛政蝦夷乱取調日記』 寛政元年
・最上徳内/著 『東蝦夷道中記』 寛政3年
・串原正峰/著 『夷諺俗話{蝦夷俗話}』 寛政5年
・高橋壮四郎ほか/編 『蝦夷巡覧筆記』 寛政9年
・渋江長伯/著 『東游奇勝』 寛政11年
・木村謙次/著 蝦夷日記 寛政11年
・谷元旦/著 『蝦夷紀行』 寛政11年
・藤知文/著 『蝦夷の島踏』 享和元年
・羽太正養/著 『休明光記』 文化4年
・児山紀成/著 『蝦夷日記』 文化5年
・松前奉行所/編 『東蝦夷地各場所様子大概書』 文化5~8年
・荒井保恵/著 『東行漫筆』 文化6年
・文道/著 『日鑑記』 文政12年
・松前藩/編纂 『天保郷帳{松前嶋郷帳}』 天保5年
・松浦武四郎/著 『初航蝦夷日誌』 弘化2年
・松浦武四郎/著 『竹四郎廻浦日記』 安政3年
・阿部喜任/纂述 松浦武四郎/校訂 『蝦夷行程記』 安政3年
・窪田子蔵/著 『協和私役』 安政3年
・石川和助/著 『観国録』 安政3~4年
・島義勇/著 『入北記』 安政4年
・青木常之助 成石修/共著 『東徼私筆』 安政4年
・森春成 高井英一/共著 『罕有日記』 安政4年
・松浦武四郎/著 『東西蝦夷場所境取調書上』 安政5年頃
・松浦武四郎/著 『東蝦夷日誌』 文久3~5年 

 そして、史料提供をしてくださった釧路町役場の鈴木様に感謝申し上げます。

蕨野小学校 -独りぼっちの小学校-

八雲町野田追川上流に木造の小学校が残されている。
「蕨野小学校」 開拓集落に置かれた小規模校の遺構だ。
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八雲町は明治時代に尾張徳川家の者が多数入植した土地で子弟教育への関心も当時から高く、山奥の沢辺に開かれた集落一つ一つにまで分教場や分校が置かれていった。この蕨野小学校もそんな僻地校の一つだった。
詳しい地理や経緯は前回の記事(赤笹小学校 ‐もう一つの独りぼっちの小学校‐ http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51872672.html)も参照にしてほしいが、 蕨野地区は野田追川上流右岸の丘陵地で明治25(1892)年に長谷川円右衛門などの愛知県出身者らが一帯の払い下げを受けて農地開拓が始まった。戦前まで農業と林業、炭焼きが盛んだったが、それ以降は酪農が主な産業となっている。

明治の入植当時、周辺は落部尋常小学校野田追分校の通学区とされていたが、その距離は遠く、未開地同然の道を子供たちに通わせるのは危険だということで、住民が集落内に私塾を開設して寺子屋式の授業を行った。これが明治34(1901)年に落部尋常小学校の分教場として認可されたのが蕨野小学校の始まりだった。
その後、大正6(1917)年に蕨野尋常小学校として独立。在校生の数も約70名に達しており、昭和10(1935)年頃までは約90人までに増加した。
戦後は僻地校の特性を利用して児童に鶏を飼育させて卵を売り、その収益を修学旅行の費用に充てたり、自給自足による完全給食を行うなど独自の教育活動が行われていたが、昭和30年代をピークに児童数減少の一途をたどり、昭和56(1981)年からは在校児童数はたったの1名になってしまう。当時は校長1人に教諭が1人の極小運営体制が布かれ、修学旅行や学芸会などの学校行事は前記事の赤笹小学校と合同で行っていたという。
結局、昭和63(1988)年には今後も生徒児童数の増加は見込めないため、町と住民の間で閉校協議が始まり、平成3(1991)年に統廃合が決定。
蕨野小学校はちょうど開校90年の節目の年に幕を下ろしたのだった。
 
その後、校舎は希望した民間人に貸し出され、羊の飼育や羊毛製品の販売に15年間利用されたそうだが、平成18(2006)年からは店子がいない状態が続いている。

冬晴れの穏やかな日の訪問になった。
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正面玄関は厚い雪に埋まってどうにもならなさそうだったので、横の勝手口から入る。
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水飲み場らしい。

横にトイレが併設されている。
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町指定のゴミ袋に不燃ごみが詰め込まれているのが散らばっていたり、生活雑貨が入った段ボールが横に積まれていたりする。なんだか学校らしくないが、元の利用者の置き土産らしい。

そのまま進むとちゃんと廃校らしくなってくる。
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この木造校舎は昭和38(1963)年の新築。総工費は当時のお金で370万円ほど。

雪国出身の私には懐かしい感じのする景色。
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まさしく「冬」だ。

教室は二つしかなく、他に部屋が一つに職員室、それとトイレと水飲み場だけという実に小さい学校だった。
しかし、最後に残った在校生1名にとってはあまりにも広い学び舎だったことだろう。

こちらの教室には元の住人が使っていたらしいベッドが残されていた。
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この部屋は日あたりが悪く、湿気も籠って天井が落ちたり床が剥げたりで最も痛みが激しかった。
夏に来たら物凄く肺に悪そうな場所だ。

窓の外は校庭
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一度転用されただけあって、黒板に記念の落書きや最後の予定表などは一切書き残されていなかった。
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これも元の住人の持ち物だろうか。学校のストーブらしくはない。
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元は図書室?
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なぜかドライフラワーが乾燥状態で放置されたまま。
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元住人の趣味かも。

家具までそのままとはちょっと持ったない気がする。
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最奥は元職員室。
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神輿? 神棚かも知れない。
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冬晴れの一日はなんだか得したような気分になる。
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奥にサイロが見えるように、この集落でいまなお酪農を続けている家族もいる。
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木造の建物と、かすかに漂う牛舎の匂い。全体的にどこかカントリー調な雰囲気が漂う。

一応現在も入居者を募集しているそうだが、果たして次はあるのだろうか。
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ドライフラワー(天然物)
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夏にまた来たい。マスクでもつけて。
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