(2012年8月13日大規模改稿 ver2.0)
(2013年6月25日 少し修正、加筆 ver2.1)

 S診療所はその廃墟美の詰まった内装、残留物によって数多の廃墟ファンを魅了して来た。
 しかしその割になぜかその来歴についてはさっぱりわかっていない。この物件を取り上げている廃墟系サイトも多いが、そのほとんどが本格的に調査をしたわけでもなければ裏付けをしたわけでない情報に頼っている状況であった。あれだけ人を引き付けて止まない場所であるのに何故なのかよくわからないが、実際そうであった。
 当然自分も初めてこの廃墟を尋ねた時、なぜ廃墟になったのか。その理由は知る由も無かった。
 ならば…自分で調べてみればよい。そう思い数回にわたる現地調査と図書館に通い記したのがこの記事である。

 また、先日とある廃墟系書籍を購入したところこの物件に関する記事があったのだが… けっこう誤りがあったので寒心に耐えないというか呆れたというか、とにかくなにかの事情でわざとそうしたのかはわからないが、全国の書店で並ぶような本を書いているのだからもう少しきちんと掘り下げて調査、執筆をしてほしく思った。

 しかし私自身まだまだ調べたりない分も多いのであしからず。
 ではいきましょう。


※S診療所の近況

残念なことに以前から崩れていた二階西側と一階西側の崩壊がさらに進んでしまった。

調合室奥の居間上部、ちょうど階段横の踊り場付近まで崩落が進み、完全に空が見えてしまっている
これにより居間を通って階段へ行くことはほぼ不可能になり、奥の台所へ行くのも困難になってしまった。
あの健全なる國民の貼り紙も、数年後には…
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二階の床敷き間も崩壊寸前
写真では見えていないが、ふすまに隣接する畳が階下にダレ下がっている

こんなに傾いてしまった
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書斎部屋に入れなくなる日も近い

(2011年10月10日追記
先日さらに潜入すると、ついにこの張り紙すらも失われていた。
壁がたわんだせいで剥がれたのか、それとも誰かが剥がしたのかは不明だが、いずれにしてもこの廃墟の残存物がまた一つ失われたことにかわりはない。
「健全ナル國民」という貼り紙がなくなっているのを見たとき、この診療所に残っていた戦前の意志がとうとう死んでしまったような気がしてならなかった。

(2011年12月追記
なんと薬剤室の行李の陰に挟まっているのを発見した。
おそらく誰かが剥がすか、下に落下したものを置いておいたのだろう。目につきやすいように行李の上に置いておいたが大丈夫だろうか。

(2012年3月追記
雪や寒波で倒壊が進んでいるかと思ったがそうでもなかった。
が、以前あった「まだ二階登れるよね たぶん」という余裕を感じ取られなくなった。 脚が完全に失われて数年たち、今にも崩壊しそうだった西側屋根がもはや数ミリ単位の圧力増加で逝きそうな角度にしなり、下を歩くことはできるだけ避けたいと本能で感じた。しかし二階にいくためにはどうしてもここを通らなければならない。
一方診療スペースの戸ですら、二階の重さに耐えかねてぐにゃりとしなり曲がってしまっていた。
確かに前からしなって居たが、あそこまで程度が進んでいた記憶はない。戸にはめられたガラスすらプラスチックかなにかのようにべこんと曲がってしまっていた。あれほどガラスとは柔軟性があったか信じられなかった。
床が落ちた二階部分の危険度も冗談じゃない程度まで上がった。畳をかろうじて載せていた天井部分さえ崩れだしている始末。いくら慎重に歩いても、二階書斎に行くことは部屋東側のヘリを歩く方法でしかむりだ。
数年のちには床が完全に抜けるか傾くかで、それすら不可能になるだろう。

階段こそまだ踏み抜くような状態ではないが、二階に上ることは極力避けた方が身のためだと思う。
今でこのような状況では、今夏で二階に登ることは不可能になるのではなかろうか


さて本題です
個人名はイニシャル仮称にして伏せた。危険な薬品がいっぱいなのは変わらないことだし、プライバシーの問題もあるので。


主なS診療所の謎は以下。
・廃院時期
S診療所が廃院になった時期は今まで「終戦ごろ」、「戦中」、「戦後」など様々な意見があった。
中に残る残留物を見ると大方は戦前、戦中の品が占める。日記や新聞、家計簿の類の日付が戦前のものと確認が取れるもので全体の9割近くが埋まり、これは戦中廃院説の絶大な論拠となっていた。
しかし残りの一部には少なからず戦後のものが見受けられるのである。二階で見つけた「昭和33年」付の新聞。生活スペースへの玄関口に貼られていた「家屋調査済証 昭和36年度 美濃市」の金属証。
「監理がなされていただけで実質は廃墟状態だった」、「後に入った者が置いて行ったのでは」などと論争はつきなかった。

・なぜ物がそのままの状態で放置されたか
S診療所を物語るうえで最も大きな謎はこの「物がほぼそのまま放置された理由」である
なにしろ生活用品から日記、果ては医療用薬品やら劇薬の類までまるまる残されているのである。なにかよほどの理由があったと想像するには難くない
上にある「戦中廃院説」に伴い「軍の命令によりどこかの都市へ家族ごと出向している最中に爆撃に遭い、家系がまるまる絶えた。もともと戻ってくるつもりだったので物はそのままだった」という話を嚆矢に果ては「津山事件みたいなことがあったんじゃない?」なんていう人もいるが、後者はナンセンスと言っていいだろう。
また残っている物の偏りもおかしい。二階や一階の衣服や布団を見るとどうも家族で住んでいたようには思えないのである
一階にあった複数の行李、二階のタンス、すべて男モノの服だった。奥さんや子供さんもいたはずなのにこれはどういうことなのか

このたび現地調査、聞き取り調査をして見えてきたのは以下の事である

・S診療所としての経歴。
 S診療所―洲原村診療所が開設されたのは大正8年から大正11年の間である。当初はこの家出身のO医師によって稼働が始まった個人病院であった。
 それが昭和12年に転機が訪れる。岐阜県が地方村のため新たに県立診療所を開設することを决定し、坂本村、河合村など7ヶ所(昭和12年の日本医事年鑑ではそのうち4ヶ所、昭和15年では6ヶ所の記録が見られる)に続々と診療所が完成したのだ。 O医師は昭和13年に吉城郡河合村の診療所長として現地に赴任し、洲原村から医師が消えてしまう。
 よって県は昭和13年以降稼働がストップしたこの個人病院を、「県立」洲原村診療所とすることに決め、修繕増築し再スタートした。この時期は不明だが、診療所内に残されていた書類や公式文書から考えるに昭和13年~昭和17年のことではないかと思われる。
 つまり個人病院時代と県立病院時代の立地がまったく同じ場所なのである。「洲原村診療所」、「県立洲原村診療所」など呼称が安定しない理由はこのためなのだ。 個人病院時代から「洲原診療所」と呼ぶ者もいたのでややこしさに拍車がかかっている。

 現地の人によると診療所は現在残る家を基点に時期によって何回かの建て増しと取り壊しがなされ、戦前の時点(県立となった時期との前後は不明)で診療スペースとして庭の中に小さな建物があったという。
 これが戦中、または戦後取り壊され、裏手(今に残るS診療所の東側)に新たな建物が建てられる。それこそが「県立診療所」で、その後診療用家屋はさらにS診療所の西側に建て直された。
 
 戦中に(昭和17~18年頃とおっしゃっていた)女医が赴任し、その次に男の先生がやって来た。この先生のことを住民は「とうしやの息子」と呼んでいて(「とうし」とは篩のことだと言う)先日、とある書物の中に彼と思われる人物の名前を発見した。しかし調査が進んでいないのでまだ公表は控える。
 昭和22年頃、Tという医師が赴任する。彼は県立洲原村診療所最後の所長となった。
 彼は昭和40年までこの県立診療所で勤務したあと、数百m離れた場所に個人病院を開業した。診療所が閉鎖されるためか、それとも自ら診療所から独立する形であったのかは不明だが、とにかくこの時点をもって県立洲原村診療所は閉鎖されるに至った。
  

・地域の医療について少しばかり。
 記録によると明治5年には洲原村に医師は一名とある。それが近代的な医学の知識をもった人物であったかは定かではないが、明治31年にも一名(同一人物かは不明)の記録がある。 そして明治42年にも一名(先の人物とは別人)の在籍が確認できる。 O医師の日記によると、当時すでに現役で働いていたO医師が其の医師に自らの妹を診せていることから腕はたったようである。
 彼は明治42年を最後に記録から消える。おそらく死亡したと思われるが、その後数年間この村は無医村状態になり、再び医師がやってくるのは大正8年~11年まで待たなければならなかった。
 そのやって来た医師とは前述の通りO医師であり、その後紆余曲折を経て昭和22年にT医師が県立診療所へ赴任。昭和40年ごろに独立開業し、そのまま今の平成にまで開業医を続け現在は息子さんに代を譲っている。

 余談だが、このT医師はなかなか波乱万丈な人生を送っており、出身は函館市。
 その後満州、台湾を渡り歩き、岐阜へ引き上げたあとは最終的にこの地へ落ち付いた。 また時期的に考えてT氏とO氏は面識があったようだ。
 T医師は大正生まれの180を超える巨漢で、つい数年前まで「若いもんには負けん」を口癖に毎日現場に立つ元気なおじいさんだった。亡くなる前日まで元気はつらつと診療にあたっていたが、あくる日体調が急変。そのまま眠るように亡くなったと言う。
 ちなみに息子さんもその身長を受け継ぎ、通学用バスの乗降時は頭を屈めないといけなかったと現地の方はおっしゃっていた。


・O医師と残留物の謎
 実家であるこの地に開業したO医師の来歴と、物がのこった理由。
 明治15年に生まれた彼は、もともとこの地の有力な神社―洲原神社の社家(後述詳細記載)の長男であったが、明治39年に医師免許を取得し、日記によれば最初に岐阜県立岐阜病院(現在の岐阜県総合医療センター)に勤務した。しかしこれはすぐに辞職する。そして岐阜市に隣接した加納町に移り別の病院に勤務し始めた後、数年間神奈川県の病院に勤務した。大正年間に(異動時期は残念ながら不明瞭)岐阜県に戻り、稲葉郡吉田村で医業を務める。
 大正8年から11年内に洲原村に戻り、開業医として昭和13年までこの地の医療に尽くした後は吉城郡の県立河合村診療所長として赴任した。 また下川村にも医療拠点をもっていて、大正8年頃から昭和5年頃まで半日出張をよくしていた記録が残っている。
 『日本医籍録』によると、昭和18年には岐阜市内のとある病院に来任し、昭和29年まで在任した。彼は決して戦火に死してなどはいなかったのだ。
 地元の方によれば、その後は老齢のため退職。実家の診療所に戻って急病人があるとかけつける江戸時代の村医者のような隠居生活をたった一人で送った。
 O医師は小柄ながらも立派な方で、短く刈った頭に白いカイゼル髭をたたえていた。 口調は頑固ではなく生真面目で穏やかなとても優しい人物だったという。

 戦中、彼に診てもらった現地の方はこう語る。
 「ワシらみたいな百姓は病院行くにも高いからねえ、風邪くらいでちょくちょく行くことはできなかったからあんまりよくは覚えてないけど。 診療所の玄関くぐるとあの受付の窓口があってね。そっから看護婦さんが顔出して・・・ 薬はたいてい瓶に詰めて出してくれたよ」

 地域住民はO医師のことを親しみを込めて「ハンさん」というあだ名で呼んでいた。
 O家は当地でそれなりの地位にある旧家だったので、寄合があると必ず顔を出していた。O氏は大正~昭和13年ほどには村議会議員も務めている。
  昭和35年の正月に、彼は天寿を全うする。78歳であった。
 二階の生活スペースには血圧を下げる薬品が多く残っていた。その辺の病気だったのかもしれない。 亡くなる数日前には息子さんが体調を気遣って、彼らの家に移したそうだ。

 T医師が昭和40年まで現在に残るS診療所内に寝泊まりしていたのか、それとも別棟で暮らして居たのか、現在の開業場所に住んでいたのかは不明であるが、いずれにせよ美濃市による家屋調査票が貼られた昭和36年あたりがS診療所に人が定住していた最後の時期となったのは確かだ。

 その後も数十年間はたまに息子さんがやってきたり、今から約20年前には瓦を葺き替えるなど半分別荘状態でおかれていたようだ。
 息子さんはこの家屋をなんとか残そうとしていた。しかし資金面で難しかったそうで、その息子さんも老いるにつれ次第に倉庫という名でほったらかしのままにされ、たまたまこの場所を見つけた廃墟フリークが出入りするようになり今に至るというわけである。

 よって、S診療所内にやたらと物が残っている理由はそのまま倉庫代わりとして使われていたためで、戦後の物が多少残っているのもこのためだ。 いますぐ使うものやO氏愛用の品は息子さんがそちらの家に持って行ったので、戦後の品が少ないともいえる。
 S診療所内に「S県立診療所」という紙袋が大量に残る理由は「カリ石鹸」や「グリセリン」等一部の薬品瓶ラベルが左から右読みだったことを考えて、増築した診療用建物に保管しきれない在庫品を保管していたためではないだろうか。


・家柄について
 地元の歴史を聞いているうちに、O医師の家系が大変古くそして由緒ある物であることもわかった。
 この集落には「洲原神社」という相当に格式高い神社があるのだが、その神職として本家から分岐した三つの神主家と四つの神官家があったと古老は語った。
 これらの家は交代で神社の祭祀を取り持ち、三つの神職家は三神主家―集落内で俗に「御三家」と呼ばれ、四つの家は四神官家―神主家と合せて七軒集と呼ぶ人もいた。

 文献によると明治まで三神主家、及び四神官家にO家は含まれておらず、O家は四神官家のひとつに使える社家であった。 しかし明治維新と法整備の影響で神職を務めていた家々はやがてチリヂリになっていった。
 O家がその地位に上り詰めたのには明治維新の影響により危機に瀕した神社を護ろうとした一人の人物の功績に大きくよる。


 このへんは一朝一夕でしらべられる範疇でないので、今回はこれでとどめておきたい。
 わかったことや、今後の動向については随時追記していきます。

 最後に今回この調査に協力していただきました地域の皆様に最大の感謝を申し上げます。