長いこと調査に入っていた美濃市のとある集落だが、宿泊していた場所からそちらへ向かうまで立派なレンガ造りの建物が見える。

見た目と立地条件から水力発電所かと思っていたが、やはりそうだった。


『長良川水力発電所』
それはかつて、一度は幻になった日本第二の発電量をもった発電所であった。


国道156号線から少し入った立花橋からみえるその姿

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長良川発電所が計画されたのは、岐阜県内に巨大な発電所を造り、名古屋圏の電力使用限度を増やそうとしたことに始まる。
名古屋電燈株式会社はそれまで火力発電所を使っての電力供給に頼っていたが、巨大資本による工場の増加に加え、明治43年の名古屋市における第十回関西連合大共進会が開催されることになり、さらなる大量の電力供給が必要なことがみこまれることとなった。そこで同社は建設に適当と思われる土地を岐阜県木曽川流域とし、計画を本格的に着手しはじめた。

しかしそれは明治時代。いたるところに電力会社が発足し、自らが建てた発電所が大都市の電力供給を支えることを夢見た時代。同じことを考える会社は他にも数社あり、中でも強い資本力を持ち、既に木曽川で八百津発電所を計画した名古屋電力株式会社が大きなライバルとして立ちはだかることになる。

両社は水利権の獲得争い、第十回関西連合大共進会における照明点灯をめぐる争い、料金価格争いなどなんどとなく鍔迫り合いを続けたが、ここで名古屋電燈に協力する男たちが現れる。

旧岩村藩士の小林重正と実業家の野口遵(したがう)である。
小林は明治年間、実業家をめざし岐阜県に移り住んだ。その業績として下呂温泉の発展などが大きい。
一方野口は日本で初めてカーバイトを製造し、日本窒素を設立した言で有名である。彼らこそが長良川発電所建設の立役者ともいえる。

明治28年。たまたま国内初の水力発電所である京都蹴上発電所を見学し、水力発電の将来性を確信した小林は水力発電所建設の適所を探すため県下の山野をくまなく探索した。
その結果、郡上郡嵩田村字木尾(一昔前は美並村、現在は郡上市)から武儀郡洲原村大字立花(現美濃市字立花)間がもっとも地形的に有利で堰建設の必要もないとして水路と発電所建設の計画を立案。野口に測量などを依頼する。
明治29年には岐阜水力電気株式会社を設立し、30年12月には水利権も獲得した。しかし思わぬところから計画にほころびが出来てしまう。日清戦争による反動不況が起こったのだ。
勝ち戦とはいえ戦争を行えば必ず反動不況が生じる。対応に手間取るうちに事業開始は遅れ、明治37年には小林らの電気事業許可は水利権とともに消滅してしまう。
諦めかけた小林であったが、野口が計画復興を援助する。野口は明治39年、小林の代理人として失った水路新設願いをドイツシーメンス社名で提出。他社の水利権獲得を防ぐとともに当初、木曽川に発電所建設を予定していた名古屋電燈に長良川に建設するように説得を試みた。
水利権はライバルである名古屋電力も申請していたが、小林たちの申請がわずかに早く、明治39年12月に認可がおりた。
そして、シーメンス社から設備一切を購入する条件で水利権は名古屋電燈へ無償譲渡されるに至った。

この長良川発電所の成功がもとになり名古屋電力は急成長。後の中部電力の素体となり、小林はその後も飛騨川水系の発電所設立に尽力。瀬戸、岩戸、下呂の発電所を建設したのであった。
そして発電所横には現在、小林の業績をたたえる碑が建っている。

発電所は昭和55年に老朽化対策と発電量増加の工事がなされ、本館系施設を除いて建て替えられた。
そして平成12年に本館、正門、木尾の取水口、水路橋など当時からそのままの建築物が登録有形文化財に
平成19年には建物全体が近代化産業遺産として登録された。
発電所は今も稼働し続けている
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当時の趣そのまま。

景観のことを考え、改築された奥の発電機建屋もレンガ作り。
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手前が本館である

正門
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昔の発電所ってどうしてこうセンスにあふれているんだ。
文明開化のロマンを感じずにはいられんだろ。

門には中部電力のマークが透かし彫り(?)
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北海道電力のよりずっと良いと思う。


電燈一つにもこんな意匠が施されている
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無機質で画一化されたデザインしかない現代の発電所も見習ってほしいです

発電機建屋の横には、記念として当時の発電機が保存されている。
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ドイツシーメンスシュッケルト電機製作会社製水力発電機。
日本語って長くするとかっこよくないですか? ミリタリー臭がプンプンする。

潜水艦のような内部
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発電計画において最大出力は4200kw。 当時としては国内第二位の発電量だった。
発電機は3台が取り付けられ(一台は予備)、一台の重量なんと8トン。当時の運搬は非常な困難を伴った。

東海道線岐阜駅で降ろされた発電機はそれぞれ牛車に載せられ、約30キロの道のりを牛と人力でえっちらおっちら運ばれた。途中の橋は補強しなければ通ることはできなかったという。
当時の写真がこちら
長良
文明の力が皆無だったころ、山間の村にその素が運び込まれる重要なワンシーン。
約一週間で発電機は美濃立花の対岸まで運ばれ、川を渡る際は長良川に発達していた筏運搬に切り替えられた。

こうして
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すいーっと
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浮力ってすごい。
当時の町衆はこの大工事に呆気にとられるしかなかったと語っているが、作業用人夫として収入源となったのでみな喜んだという。

逆に舟運衆はこの発電所建築で運命が二分した。
いくら年中豊富な水量がある長良川でも、発電にとられるとなると渇水し舟がだせなくなる可能性があるということで、舟運衆は会社に保障交渉をした結果、これを期に舟をやめるものは水行権を会社が千円で買い取り、続ける約半数は万一渇水が起こった場合の保障金として20円を会社が支払うことで合意した。
要結当時は米一俵が4円だったが後々物価が上がり、20円の保障金はなんの意味もないはした金同然になってしまう。 残った舟連中も結局稼業を畳まざるを得なくなったのであった…

というわけでさまざまな困難と発展と運命を糧に、明治43年。長良川発電所は運転を開始。先述の通り、以降一度の発電機取り替えと改築を経験し今も現役で運転を続けている。
ちなみにこの発電所。発電した電気は大方名古屋市内まで送電されるので、大正3年ここより2キロほど下った場所に地元用の井ノ面(いのも)発電所の建設運転が始まった。こちらも今でも現役。地中式水力発電である。
一週間前にここを通った時は勢いよく水を放出する姿を見て取れた。

当時の長良川発電所全景。本館は当時と変わらぬまま。
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現在は発電機は一台のみで運転。
台は減ったが単独で4800kwの最大主力があるので問題はないのだ。

奥の水路入口方面から
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金網の向こうに水路の終点が
ボケてるがこれはこれでなんだかよさげだったので
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この水路から金属管に圧縮水を流し、発電機を回す。
有効落差は27.53m

上流へ
水路の底は見えない 見たくもない 淡水で泳ぐのだけは勘弁してくれ。
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発電所隣りには小さな社がある。
石碑はやはり水神であった。
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これはなにもここに限ったことではないが、この付近は昔から長良川の水害がおこったので特に水神信仰が強い。

そしてこれより上流の湯の洞温泉へ上る道の間に水路橋が通っている。
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これも当時そのまま 文化遺産となっている。

重厚感たっぷり
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レンガは年季が増すごとに味がでるな。
コンクリでも木でもそうだけどさ それぞれに持ち味があるからいいんだ

琵琶湖疏水の南禅寺水路橋を見に行ったことがあるが、そういえばどこか似た趣がある。
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橋脚部分のアーチ窓の感じが特に

美しい
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湿気がもたらす色の深みが素晴らしい。

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天井
こちらもまだまだ現役
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っておい
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文化財登録される前に書いたのかな…

緑にレンガ色は本当に似合う。
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橋のすぐ横に上に登れる道が。
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ふかーいのでしょうね 絶対に入りたくない。

通路がある。
向こう側にいけるようだ
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普通こういう道はなにかで入れないようにしてるものだが…

存外に高い
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前は崖 後ろは水
二時間サスペンスだったら僕はこの撮影中に転落させられるんだろうな。
水路に落ちるくらいなら地面に落ちたほうがマシだと思う。どうしてこうも淡水と海水で認識が違っちゃったんだろうか。

逆光だからこそ映える姿
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曲線をたたえた光と影が秀逸。美しい橋だ。

砕けた岩かな
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レンガではあるまい。
左の橋脚が割れてるように見えるがレンガではあるまい そうに違いない。

ひっそりと鄙びた山あいにたたずむ長良川発電所施設
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発電にかけた想いは今でもこの水路を通って時代を動かし続けるのだった。

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今回の参考文献

美濃市/編 『美濃市史 通史編 上巻』 美濃市 1979
美濃市/編 『美濃市史 通史編 下巻』 美濃市 1980
社史編纂会議/編 『中部電力50年史』 中部電力 2001