今は平成の大合併により渡島管内八雲町となっているが、数年前まで渡島支庁側が八雲町、檜山支庁側は熊石町であった。
その熊石町畳岩地区には門昌庵というお寺がある。

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この三門は約400年ほど前、豊臣秀吉から松前初代藩主慶廣に下賜された桃山別殿の裏門であったものを、12代藩主昌廣がこの寺に寄進したと伝わっている。
しかし、門昌庵に伝わる古譚はそれだけでない。もっと血腥い、恐ろしい言い伝えがあるのだ。
この庵が結ばれるきっかけとなった人物、門昌についてである。


今を去ること約300年前、松前が福山と呼ばれていたころ、城下大洞山法幢寺の六世住職に柏巖峯樹門昌という高僧がいた。越後の生まれと伝わり、昭和39年に発見された三物(僧職者の経歴書のようなもの)によると、松前に渡ったのち寛文6年(1666年)法幢寺の五世鉄山和尚の弟子となり、延宝4年(1676年)に六世住職となった。


なかなか世に聞こえた僧であったが、ある年、松前藩六代藩主の松前矩廣が19歳のときのこと、一つの事件が起こるのである。(以下は『門昌庵実説』による)

矩廣は7歳にして藩主となった。当然藩の実権を握ろうとする悪臣たちがはびこり、そのころは悪臣の女仲間、幾江にたぶらかされ毎日色三昧であったところを、藩邸家老松前泰廣のとりなしで京都の
公卿:唐橋侍従藤原在庸(ありつね)の息女、雪を正室に迎えた。
しかし彼女は早くに病死(一説には悪臣たちが毒をもったのではないかと言われる)。

悲しみにくれる矩廣はある日城下に出ていたところ、家臣:丸山久治郎兵衛の妹で丸山小町とうたわれた喬子(たかこ)を見染め、即日城にあげて松江と名乗らせ、松江は矩廣の寵愛を一身に受けることとなった。

当然幾江やその仲間は面白くない。
そこで松江が柏巖門昌と密通しているとでっち上げ、まんまと矩廣の怒りを買わせることに成功。松江は矩廣に斬りつけられ家臣お預けとなり、門昌は
遠く離れた熊石の配所に流されてしまった。

配所勤番の者たちは彼を憐れんで草庵を結んで住まわせたが、折悪くその後矩廣の周りで不祥なことが相次ぎ、いよいよ悪心たちは「さては門昌が呪いをかけているのでは」と口々に噂した。当時江戸で患っていた矩廣は遂に門昌を討つようにと家臣に命じた。
天和元年12月21日とも延宝6年12月22日とも記録されている。

柏巖は捕えられたが、刀を受ける間際に

「われ汚名にくもりていま玆に斬らるるが、よし命は召さるとも魂は天に飛び地に走りて、この怨みをはらさん」

と言い、数珠を逆手にとって逆さに経をあげながら殺されたという。

家臣たちは首を松前に晒すとて持って帰ったが、途中江差の寺に泊ると夜更けになってその首を置いた一間から出火してたちまち寺は全焼してしまった。けれども恐ろしいことに首桶は灰燼の中に焦げ跡もなく残っていたので討手たちもその怨霊に震えあがり、飛脚を福山へ向けた。
城中評議の結果、門昌の首は熊石草庵の付近に埋めることとなり、以来この庵を無念にあった門昌和尚の名をとって「門昌庵」と言われるようになったという。



この話は、1789年に書かれた菅江真澄著『蝦夷喧辞弁(えみしのさえき)』にも記録されているが、
時代が下るにつれていろいろと話に尾ひれが附き、異聞も数多い。
代表的なものでは「和尚さんの処刑後、庵のそばを流れる小川がものすごい勢いで逆流したので、今でも逆川と呼ばれている」といったもの。
長めのものでは以下のものが松前町に伝わっている。


…昔福山の殿様があんまり妾さんにつらく当たるので、耐えきれず門昌庵にかくまってもらった。
殿様は怒ってその坊主を討って連れ戻せと家臣に命じたが、坊主はなんとしても渡さぬというので遂に打ち首にすることになった。
そこで坊主は大般若経をさかさまに読んだところ、そばを流れていた川の水がたちまち逆さまに流れ出した。驚いて呆気にとられている家来に坊主は「これでも首を斬るか」と聞いた。
家来は斬ると言って刀を抜いたので、坊主も覚悟を決め「七代七流祟るからこの首を持ったら必ずどこにもよらずにまっすぐ城へ帰れ」といって寺の横の草原で討たれた。この坊主の祟りで門昌庵の畔の草は枯れてしまって生えないという。また寺の畳をいくら替えてもすぐに赤い血のような色になるという。

さらに家臣は帰り道、あろうことか坊主のいったことを忘れて川白という名主の家に泊ったが、その家に狂人が3人も生まれ、そのうちの一人がブンキと言って昭和初期までまだ生きていたという。
そうして上ノ国まで来たところ、大水がでて渡し船も渡れず仕方なく阿弥陀寺に泊ったところまた坊主の祟りで火事が出て寺は焼けてしまった。松前の城に戻ったあとも火事が出たという。

妾もその後殺されたが、坊主の言うとおり松前の殿様の家にもその後狂人が生まれ、それから逆さに流れた川には数年に一回毒水が混じって、飲んだものにも祟りがあるという。
今の人はそんな話も忘れて、その水をどんどん飲んでいるがね。

と古老たちの言うことだ。(三浦善雄著『福山城の怪火』より)



…今でも門昌庵の住職が変わるたびに、必ず門昌が姿を現すという。
これは明治20年頃の話だが、この寺の住職に星野梅苗という老僧がいた。梅苗師が住職となって間もないころ、陰暦七月十五日の夜、境内には盆踊りが盛んに行われてもう十二時も回ったくらいに、古い庵の蝋燭も消えて踊りの輪も小さくなっていくので、まだ消え残っているものを消そうと本堂に行くと、本仏を安置する前に何か朦朧としてたたずむものがある。
その時は二人ばかり僧侶もいたので、灯を消せと命じたが消しもせぬので、自分で消そうと思って近づくと、ふっと一瞬に灯火が消え障子窓から明月が流れ込んだ。
はっと思うともうその姿なく、全身水を浴びたような思いをしたという。

彼は気を落ち着かせて平伏し一心に経を唱え、それから床に就いたが、その夜不思議や枕もとに僧侶が現れて、梅苗と言って起こすので目を開けると荘厳な声で
「余は当山の開祖である、よく護持せられよ」
といって姿を消したと伝える。(『松前史物語』収録)



怨恨というものは恐ろしいものだ。

この事件があった後、矩廣は自分の過ちと門昌を深く哀しみ、自ら釈迦涅槃像を描いて菩提を弔ったのみならず、米10俵に金10両を贈った。
最初に述べた三門の寄進も門昌の霊を弔うためのものであり、昭和24年の松前城全焼事件も門昌の祟りだというものがいたことからも、彼の一譚がどれだけ恐れられているかがうかがい知れる。


この話の裏には、幼少の藩主の陰で暗躍する悪臣によって御家騒動が起こったため、門昌というスケープゴートをつくることで納めたのではないかという研究解釈がある。
実際矩廣は時の将軍綱吉から直々に注意勧告を受けるほどの体たらくだったのだ。

ちなみに、矩廣はこれがきっかけとなったのかは不明だが以降本当に改心したようで、後年初代藩主慶廣、10代藩主章廣とともに「松前家の三英傑」とたたえられるまでになっている。