道南地域にはところどころに「鍋毀坂(なべこわしざか)」という地名が点在している。

ざっとあげて行くと上磯町戸切地、上磯ダム湖畔の鍋毀坂。
函館市亀尾集落山中の鍋毀坂。
福島町千軒、綱配野の鍋毀坂。
そして場所がとんで小樽郊外のなべこわし坂。

海を渡って青森県八甲田山系、酸ヶ湯温泉附近の鍋こわし坂。
そして、「鍋」がついていないが西津軽深浦町、追良瀬川にある「コワシ沢」といったところである。

鍋毀し



なんとも由来が知りたくなる地名だがなんとこの地名、辞典や各町村の歴史読本を読んでもハッキリしたことが載って居ないのだ。
唯一それらしいものが書いてあるのは小樽のなべこわし坂で、「ある日町へ市に行った農民が帰りにぬかるんだこの坂で馬を横倒しにしていまい、その際はずみで買ったばかりの鍋を壊してしまったからだ」という由来譚が出て居る。

うん。 こいつはくせえーッ!後付設定のにおいがプンプンするぜッーーーッ!ってことで却下だ。民俗学的にはそういった伝承があるという事実だけでも貴重なのだが、それとこれとは別なのだ。
小樽の場合、他の場所に比べてあだ名のような扱いらしいので有り得なくもない。しかしほとんど同地域に数か所存在するというのがどうにもひっかかる。輸送中にそんな鍋ばっかり壊してたまるかという話だ。



口承の他、文献に初めて登場する鍋毀坂は福島町千軒のものである。
これは安政二年、画人である平尾魯僊が藩用で弘前から松前に渡り、箱館へ向かう道中記した日記の記述である。

「・・・はじめ福嶋を出て一里余の間は平然たる郊野にして道の左り二十間或は十間許はなれて四、五軒の屑屋あり みな畑作の仮小屋とぞ 又此間に川あり一ノ渡と云 幅十間許り也 是より両山漸々に迫り河水を渡る事幾回 柴草雑樹次第に茂り日光を見ざるを一里余にしてはじめて峠にかかる紆余曲行して登るを五六丁
 奇花怪樹路傍に布き懸地に出此処両山志はらく開て として長堤の如く連蛮雲外にたたみて万樹枝をまじえて(中略)是より一里許過て又一ツ家あり 一ノ渡と云立派なる構へなり 主の名は甚左衛門と云 是もと旅客を助けん為 松前侯より建てさせしとなり 是より二十丁許往て五番坂 鍋毀坂などわずかの峠あり 又湯の尻と云川あり・・・」

これにも由来めいたことは書いていない。
他の「五番坂」や「一ノ渡」という地名の註釈は色々な所で見聞きするのに、鍋毀坂という地名の研究は進んでおらずそれどころか半分忘れられた存在と化している。

またこれ以外の鍋毀坂地名については古い出典が見つけられなかった。由来は上の説話以外不明ということになる。
しかし、それでは納得がいかないわけで、ここでは個人的に仮説を立てた。




多く地名はその場所の特徴によって名付けられる。
椿がたくさん咲いてる岬ならツバキサキ。 満月の日、川面にきれいに月が映る沢ならツクミザワといった感じでだ。
これに後世になって伝説が付加されたり、訛りが加わったり、漢字が宛てられ、それが読みにくいから読み方を変えたとか音便変化しただとかでわけのわからんことになるのだが、元をたどればなんのことはない。要は土地の特徴をつかめばいいのだ。

そこで4つの地点に共通する事柄を考えると、以下の二つになる。

1、峠道。
2、近くに水源、川がある。

北海道や青森ということもあり、元の言葉はアイヌ語であろう。 千軒地区は古くから砂金採掘の関係で和人が出入りしていた歴史が有り和語地名も数多いのでそちらの線も一応残しておくが、まずはアイヌ語という視点で見てみる。

ナベコワシサカという音のうち、「サカ」には「sak-a(無い、涸れる)」という形で地名に用いられることがあるが、最後にもってきては意味が通じないのでここでは和語と考えられる。単純に峠というのには小規模な坂だから「○○坂」。
これは余談だが千軒峠は道南では函館から南茅部に抜ける川汲峠と並んで昔から難所とされ、今の国道が出来る前までは何台と大型車が谷底に落ちている場所なのだ。それに比べればこの場所は「坂」と言ってもいいくらい楽な上りの道であったのだろう。魯僊の「わずかの峠あり」という記述からみても、この「サカ」は和語の坂ということになりそうだ。
(ただし酸ヶ湯温泉の鍋こわし坂はけっこう急峻な道らしい)

次に「地名アイヌ語小辞典(知里真志保著)」で「ナベコワシ」に似た音を探すと、nの項目に「nam-pe(ナペ 冷たい水、自然に水の湧いている場所)」という意味の音を見付けた。
「東北六県アイヌ語地名辞典(西鶴定嘉著)」、「北海道の地名(山田秀三著)」で検索をすると、「鍋○○」とつく地名には多くこの単語で解釈をあてているようだった。瀬棚の「鍋岳」などがそれにあたる。

しかし、上の辞典の中にも「ナベコワシ」という地名はでておらず、また「コワシ」の音もなかった。
「ko」と「washi」で分けて考えてみたが、これも意味の通る言葉の組み合わせは出てこなかった。
よって「コワシ」の音について何かほかの言い方はないかと調べてみると、小樽の現地の古老の中には「ナベコワシ」が訛って「ナベキャシ」と発音する人が少なからずいるという記述を見付けた。確かに「キャシ」とは「壊し」の訛りで北海道弁の一つであるが、ちょっとここに注目したい。

アイヌ語を和人が聞いた時に、その発音を無理やり日本語のカナにあてはめることはよくあったことである。
たとえば「yam-wakka-nai(ヤワッカナイ)」を「ワッカナイ(稚内)」、「hura-nu-i(フウラヌイ)」が「フラノ(富良野)」と云った具合に、今でも英単語を覚える中学生がよくやる手と一緒だ。
加えて「ナベコワシ」が「ナベキャシ」に訛ることから、少し音の変化に気を付けて考えてみてもよいのではないだろうか。そうなると、適当な意味をなす単語として「kasuy、またはkush」が候補が上がる。

これは「渡る、徒渉する」という意味の言葉だ。単純に「ナペ」と併せて考えてみると「ナペカスィ、ナペクシ」となり、「水源のある峠道」と解釈できる。現地の地理に合致する意味だ。
「ナペカスィ」「ナペクシ」どちらも「ナベコワシ」という音にきわめて近く、特に前者は「カ」の音が「kua」→「kuwa」になり得る。また東北六県アイヌ語辞典には「ナペクシ」を語源とする地名「鍋越(元の意味は「硫質物を含んだ水流を渡るところ」)」が山形県尾花沢市内にあると記載されている。
「ナペ」はただの水ではなく「硫黄分を含んだ水流」という解釈もあるのである。

そうなると、ますます「ナベコワシ」が「ナペカスィ/ナペクシ」である可能性が高いのではないだろうか。
千軒、亀尾が位置する千軒岳周辺と横津‐駒ヶ岳は昔から活発な火山帯であって、今でも温泉や鉱泉を含んだ水源が多く湧く場所だ。(前記事の精進川小考を参照) 上磯ダム付近は石灰岩地層があり、その水流にも鉱質分が豊富に溶け込んでいる。一つ山を越えた場所では峩朗鉱山が今でも操業中である。 小樽のナベコワシ坂も地図を見ると近くに温泉が湧いており、酸ヶ湯温泉の鍋こわし坂に至ってはもはや説明不要であろう。


要所は押さえられた。「鍋毀坂」の由来は「ナペカスィ」か「ナペクシ」と見てよいと思う。



・・・といいたいところだが不安材料がないわけではない。今回調べた辞典、史料の中には「カスィ/クシ」が「コワシ」になったという他例がみられなかったのだ。
これではただの筆者の妄想と言われても反駁できない。 しかし、現地の地理と過不足なくあてはめられる言葉がこれより他なかったのも事実である。

「硫黄分が流れる川」と「峠」という地理的状況からみて間違いないとは思うのだが、論理的にずいぶん弱い説であることは十分承知してもらいたい。




一方で、この地名がもとより和語であったとみても意味は通る。

実は道南地方では「ナベコワシ」というと地名より、カジカという魚のことをさす。たぶん十人いればだいたい十人が「カジカのことだろ?」というに違いないくらい。

カジカは川と海に棲む魚のことで、こいつを捌いて煮た鍋がとても美味で、みんなが競って食べようと鍋の底をつつくので鍋がいかれてしまうことからその名がついたというのだ。
038
カジカ、見た目は地味だが料理するとうまい



鍋毀坂のすぐ近くにはたいてい川がある。そこにたくさんカジカ=ナベコワシがいたからナベコワシ坂、と考えられなくもないのではなかろうか。







なんとも奇妙な地名「鍋毀坂」

これが元来アイヌ語だったとするときそれは「ナペカスィ/ナペクシ」であり、その意味は「硫黄分が流れる川(または水源)を越える道」であった。それを後に和人が「ナベコワシ」としたと考える。
初めから和語であったとするとその由来は魚のナベコワシであろう。

個人的には前者の説を推したいが、先述の通り状況証拠しかないようなぬるい説なのであんまり声高には唱えられないのが悔しい限りだ。
今後、これに近い使用例を見付けた際はすぐに追記・修正したいところである。





今回の参考文献

知里真志保/著 『地名アイヌ語小辞典』 北海道出版企画センター 1956
山田秀三/著 『北海道の地名』 北海道新聞社 1984
山田秀三/著 『東北・アイヌ語地名の研究』 草風館 1993
西鶴定嘉/著 『東北六県アイヌ語地名辞典』 国書刊行会 1995
小樽市総務課広報広聴課/編 『広報おたる 平成16年8月号』 小樽市 2004
福島町史編集室/編 『福島町史 第二巻』 福島町 1995
知内町役場/編 『知内町史』 知内町 1986
上磯地方史研究会/編 『上磯町歴史散歩』 第一法規出版 1986
平凡社/編 『日本歴史地名体系2 青森県の地名』 平凡社 1982

参照ページ
国土地理院HP、うぉっ地図