(地域の講についても併記)
やっと雪が溶けたので、行きのがしていた集落の墓地を調査して参りました。
今回は檜山管内上ノ国町湯ノ岱墓地と宮越墓地を家紋調査。

まずは湯ノ岱から。
内陸の盆地であり春は遅く冬が早いため農業には適さなかったが、一方でヒノキ・アスナロ林が豊富で、古くから林業で栄えた集落である。

「湯ノ岱」の地名は江戸期の文献から登場していて、由来不詳。 鉱泉が噴出するので「湯」の出る「タィ(森、川沿いの木原の意)」との解釈が一般的である。[『角川日本地名大辞典』より]



墓地は道道沿いの小高い傾斜地に存在。 入口に地蔵堂がある。
この墓地も五三の桐、丸に花菱、三つ葉柏、違い鷹の羽が多く、ついで源氏車、梅鉢、隅立四ツ目、数軒上がり藤が見られた。



『花形雪』
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使用家は結城さん。

以前「昔から雪の結晶は六角形だとわかっていたのだろうか?」という趣旨の疑問を述べたが、調べてみると意外にも古くから知れらており、現代で言う「パウダースノー」を古語では「きらら雪」と呼んでいたそうだ。

世界で初めて「雪の結晶が六角だ」と発見し報告したのは西洋の科学者ではなく、なんと東洋の文人であるという。

それは燕の国の「韓嬰」なる人物で、前漢時代紀元前150年頃の自著『韓詩外伝』の中に「凡草木花多五出雪花獨六出」(草や木の花はたいてい五出だが、雪の結晶だけは六出だ)と書いている。
これはスウェーデンの大司教マグヌスが雪の結晶をスケッチし出版した1555年よりもずっと古く、古代人の観察力の高さを尊敬せずにはいられない。 16世紀にオランダで顕微鏡が発見され、蘭学の影響で日本でも雪の結晶を観察する人が出現し、そして中谷宇吉郎が北大で雪の研究を初めるのが1930年代。

古くから雪の異称として「六花」という言葉がある。なんと雅な表現であろうか。 近代化はなにかと古いものを排除してしまったが、昔の人の方がずっと物知りだったのかもしれん。



…だが、よくよく考えれば顕微鏡なんてなくとも肉眼で充分見えるよなぁと、雪かきをしながら情けなく感じた。





『ふくら雀』
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泉澤で確認したふくら雀より作画が恐い。
石材業者が使った型紙にも個性があるのだろうか。





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家紋なのか屋号なのか不明。 読み方も不詳である。




湯ノ岱から桂岡には寺院はなく、皆上ノ国と江差の寺院の檀家である。 よってその宗派に統一性がなく、檀徒宗派による横のつながりは薄い。

先に述べたとおり、湯ノ岱の墓にも六地蔵の御堂が存在するが、これは平成二年に松浦正と云う人物が奉納した新しいもので、この地蔵に関しての地蔵講はない。

ただ、40年ほど前までは死者が出た時に念仏講を行っていた。
村の人たちは死者が出ると、通夜の晩に死者の家へ集まって、みんなで輪になり鉦に合わせて念仏を唱えながら大きな数珠を十三回回すのである。 現在では行われなくなったが、使用した数珠、鉦、鉦叩きなどの道具は今でも大切に保管されている。 また、明治の頃には「風邪送り」と云って、悪い風邪が流行った時に病魔を村から追い出すためにこの数珠回しを数人で行っていたという。[『上ノ国町の社会と民俗』より]




次、宮越集落墓地

以前廃校の取材でお世話になった土地である。

地名の由来は、湯ノ岱へ向かう旧道が村内の稲荷社脇を通っていたからとする説と、アイヌ語の「イヤムウシナイ(栗の樹が多い沢・川)」の転化とする説がある。



お馬さん。
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近隣集落である早瀬や神明では、昭和の半ばまで馬を飼う家が多くあった。 この二つの土地には馬頭観音が存在し、早瀬ではその命日とされる毎月十七・十八日に馬を飼う家の者が集まって祭を開いていたという。
 
しかし、農器具が機械化されるにつれ次第に馬を飼う家も減って行き、現在ではほんの数軒見られるのみとなった。
その一軒がここ、宮越にあるというわけだ。 色々と魅力的な村落である。宮越。





墓場の斜面にカタクリとフクジュソウが咲き乱れていた。
盗掘・イクナイ!
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この墓地も五三の桐が圧倒的に多い。他には橘と以下数件の例外が見られた。


『丸に五ツ星』
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東○電力ではない。
星家紋の中ではマイナーな部類に入る。

そろそろ1~10曜を発見コンプリートする日も近いか。

使用家は生出さん。




『抱き稲』
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使用家はやはり鈴木さん
派生の多い抱き稲家紋のもっともメジャーなものである。




最後に、家紋ではないが珍しいので紹介。

金谷さんの屋号である。
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これ、なんと「ヤマコシ」と読む。
狭い集落なので、幸いお墓を所有する家がわかり読み方を教えてもらえた。



家紋も面白いが屋号も面白いものだ。
日本民俗学における「屋号」と、北海道で通用している「屋号」は意味が違うし、あまり研究も進んでいない。 このお宅でも読み方を知って居る方は年長のお婆さんだけであった。 調査するなら今のうちか?



地誌には宮越地区の講集団の記載がない。そもそも存在はしないのだろうか。

墓地から、集落全景。
向こう側が、次に向かう早瀬、桂岡方面である。

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次回も家紋調査です。