(地域の講についても併記)

前回の続き…


さらに道沿いに進むと上ノ国本町の平野が見え始め、玄関代りの墓地が佇んでいる。

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早瀬集落の墓地である。
「早瀬」の地名由来は不詳。ただ、木古内上ノ国間のうち宮越から上ノ国へ向かうあたりを俗に「上り四十八瀬」 「下り四十八瀬」と呼ぶ難所であったそうで、この天ノ川の流れに関連した地名であると思われる。[『角川日本地名大辞典』より]

早瀬集落の墓地は宮越のものより輪をかけて小規模で、「五三の桐」、「唐花」が数軒共通してみられたほかは各世帯バラバラの家紋を用いていた。


『三つ割藤崩し』
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使用家は安保さん
藤の花を意匠を円形に沿って配置したもの。

最初に見た時は三つ割茶の実に勘違いした。




『中輪に紅葉』
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使用家は鈴木さん。
以前紹介した『紅葉の桐』の大元。 秋になると散るという印象から、武家の使用家が少数だったため今でも少ない方に入る家紋だとか。

桜も「花は桜木、人は武人」とか云われてるのにこの違いは何だといいたいが、そこは武士にしかわからない微妙な感覚の裁量なんだろう。
しかし、桜も家紋としての使用家は少ない部類か。やはり「散る」様を嫌ったのだろうか。
梅・柏・桐・橘に対し桜が家紋として圧倒的に少ないのにはその他にも信仰、威光の符号という意味合いが薄いという理由もあるのかもしれない。



小さい墓地なので早瀬はここまで


併記)
早瀬集落にも講集団が存在する。
墓地入口に六地蔵が祀られており、毎年三月ころに地蔵講が行われる。かつては3月24日に行って居たそうだが、現在は彼岸中の暇なときに見合わせて行っている。
二十年ほど前までは、新仏があった家が宿となって、地蔵と共に同家の仏も祀ったが、現在では生活改善センターで行っている。
参加者は集落中の女性。 当日に地蔵の衣を掛け直し、宿の家で数珠を回しつつ鉦を叩いて経を唱えた。その後、各自が持ち寄った料理を食べて終了となる。

供物はベコモチ、もしくは彼岸団子である。 ここの彼岸団子は粳米と糯米を1:1で混ぜ、小指程の大きさにして三角に形成したものである。

また女性が集まる祭事として虫送りがあり、虫が異常発生したり風邪が流行ったときには年長の女性が集まり小豆飯を供物として、行列で道筋を歩いたあと供物を川へ流したという。
その他、戦時中まで女性のみが神社に集まり一夜を明かす「籠り講」があった。(具体的な日時は不明)


講ではないが、昭和20年代まで江差の増川家からイタコオロシが仏を背負ってやってきて、作柄や人の占いをしていたという。[『上ノ国の社会と民俗』による]






次は桂岡地区。


「桂岡」の名は昭和10年に改まった新しいもので、古くは「トマフ」「トカフ」「トマップ」などと呼ばれており、「豊部」「苫符」の字があてられた。
もちろんこれはアイヌ語で、「トカプ(沼の上手の岸辺)」または「トマ(湿地・沼地)」が語源として考えられる。[『角川日本地名大辞典』より]


桂岡という地名に改称した理由は翌年の国鉄開業に関係するとも、地番改正の影響とも言われており定かではない。
その由来は、村内の愛宕神社にあった桂の大木であるが、昭和54年5月に切り倒されてしまった。

またこの桂に関して
「苫符の沢奥の沼に大蛇がいた。この大蛇があるとき村人に「蛇は陸で1000年修業したのち、海で1000年修業すると竜神になれる。 私はもう陸での修業は終ったので海に出たいのだが、桂の木が邪魔で下れない。なんとか切ってはくれないだろうか」という夢を見せた。 しかし、大蛇は海に出る時洪水に乗って下るものだから、もし切ってしまえば村中大変なことになるので、村人は桂の木を切らなかった」
という伝説が残る。

というわけで、この桂を切る時は洪水を心配する人もいたそうが、結局何も起こらず済んだという。[『上ノ国の社会と民俗』より抜粋]



桂岡集落の墓地はその愛宕神社の横にある。
神社と墓地が隣り合っていることが多いのは北海道の特徴?

例によって入口に六地蔵があり、その向かいには同町の福士なる人物が平成6年に奉納した供養塔が有る。
おそらく隣に置かれた「天保十年」などの銘がある墓石五基のためと思われる。この古い墓石は元々愛宕神社境内の環状盛土の中に安置されていたものだという。


家紋の多数派は順に『唐花』、『上り藤』、『五三の桐』、『丸に三つ葉柏』、『隅立四ツ目』、そして『九枚笹』が数軒。



『丸に算木』
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使用家は八田さん。
算木とは、その名の通り勘定に用いた拍子木のような器具。 しばしば引両家紋と混同されるがここでは参考の辞典、書籍に則して別物とする。




『細川桜』
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名門、細川氏の使用した桜家紋。

なんと、ここでの使用家も細川さん。 遠縁か、それとも肖りか?




『抱き鷹の羽』
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使用家は大橋さん。

その数は良く見かける『違い鷹の羽』とは比べ物にならない位の極少数に収まっている。もう少し多くても良さそうな気がするのだが。
鷹の羽家紋が使用され始められたのは太平記のころからで、以降長谷川、菊池、太田氏を中心に広まっていく。



お、これは珍しい
『丸に橘菱』
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使用家は三國さん。
地元では上ノ国や木古内に多くみられる名字で、語感のためかやけに由緒ただしい苗字に感じる。

珍しい家紋だが、 <(^o^)> に見えないこともない…




珍種がつづく
『丸に梨切り口』
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使用家は杉山さん。
唐梨の意匠化で、幕末に流行した。 手芸用のビーズやボタンで作った文様にも見える。




『梵字』
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使用姓氏不明。
これは「キリーク」という梵字で、観音様や阿弥陀如来を表す。

これは家紋ではなく、種子(しゅうじ、しゅじ)と呼ばれるものである。
種子とはそれ自体が「仏」をあらわす梵字のことで、これを墓に彫り込むということは要するにその仏を彫ってあるのと同じ意味である。胎蔵界大日如来をあらわす「ア字」、上記の阿弥陀如来をあらわす「キリーク」が有名である。

このような風習は古くからあり、鎌倉時代の墓に登場を認められる。
現在でもア字は密教系、キリークは浄土系の墓に表示されることがあり、これはその一例である。




ちょっとすごいものを一つ。
名士のお墓なのだろうか。 素晴らしい彫刻が施された墓石があった。

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今迄いろんな場所の墓を見て来たが、こんなに手の込んだ墓石を初めて見た。
材質は越前の笏谷石である。

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当時の石工さんの技術の高さをうかがえる。
近場にそんな腕利きの職人がいたのか、聞いた事が無い。


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(追記)
さらに調査を進めるうち、他の墓地でもこのような彫刻を施された墓石を発見する事があった。
この墓石と同じくたいていは笏谷石を用いているが、年代は戦前より前というだけで一定でない。

笏谷石は越前で産出する石で基礎石、石段、墓石など広く利用される。
柔らかいので彫刻を施しやすかったのだろう。

北前船のバラストとして積み込まれていたそうで、そのため松前を中心に今でも多く残っている。



併記)

桂岡でも毎年三月に地蔵講が行われている。
これは墓地入口にある六地蔵を集落内全戸が参加して祀るものであり、縁日は23日であった。平成5・6年は24日であったという。
当日の朝から衣、料理、祭壇、地蔵のお迎えなどの準備を行い、地蔵の体を洗って新たな衣を着せて祭壇に祀る。 
この祭祀に特定の寺の住職は関与せず、各自お参りをして代表者を中心に念仏を唱えた後直会となる。
昔は他に百万遍の数珠を回した。

また、かつては「疫病送り」として流行病が起こった時は辻に出て念仏を唱え、サン俵に豆ご飯を乗せて川に流したという。


桂岡には鬼子母神講もある。
これは信心ある家の者のみが参加し、その数は平成6年頃の桂岡全戸数97のうち約30戸と三割にのぼる。
同講が所蔵する『記録』によれば、明治36年に澤田梅太郎という者が28歳のとき眼病にかかったが、法華教により大正10年4月からこの講を始めたとあり、そのため今でも講の者には日蓮宗家が多い。


また、数十年前まで毎月18日を縁日として観音講を開いていたが、世話人である藤田ハマ氏が他界されたためこの講は現在廃絶している。

その他、青森からイタコが来て漁占い、カミオロシをしていたという話がある。[『上ノ国の社会と民俗』より]




こうしてみていくと、湯ノ岱~桂岡では仏教的な講が中心で、しかも女人講が多いという特徴がある。