さて今回から数回にわけて、松前町に分布する墓地の家紋調査です。
北海道でもっとも古い歴史がつまった土地、松前町。 当然残っている墓の数、その年代の古さともに内地と引けをとらないものが揃っている。
北海道においてはここ以外の場所でほとんど見られない形の墓塔がいくつも立ち並ぶ。
これなんて弘化四年だと。幕末だが、北海道では古い部類の墓に入る。そして他にも「宝暦」「享保」などの年号が彫られた墓石がゴロゴロあるのだ。
余所の墓地ではまずありえない光景だから驚きである。さすが松前の名は伊達じゃない。
まずは松前町中心部の住宅街に位置するお寺、正行寺(浄土宗)から。
護念山正行寺は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)の造立とも言われ、松前氏がまだ改名する前―蠣崎氏と名乗っていた戦国・安土桃山時代にまで遡る古刹である。
当時の蠣崎家当主は五代目にあたる蠣崎季広であり、彼は父の代まで進めていたアイヌとの抗争を和睦し、宗派によらずに寺院を受け入れるという寛大な宗教政策を敷いた。正行寺の開山は岌西という浄土宗の僧侶であるが、その建立には季広の助力はもとより、淡路屋の丹下商人なる資本も使用され、寺にはこの丹下の伯父にちなんだ仏師:春日が彫った阿弥陀如来像も安置されたという。 商人資本や隔地間交易が下地となった寺院はそれまでの松前では例がなかったことであり、これは松前の歴史の中で大きな意味を持つと云える。
季広は先述の通り、特定の宗派を弾圧することもなく寛容な政策を採ったが、寺院の保護支援においては経済的、政治的裁量により果断な対応を示した。 このため、ほぼ同年代に同宗派である光善寺が建立された一方で、季広は正行寺を手厚い加護の元に置いたという。
境内を歩くと、どこか京都郊外のお寺のようなもの静かさと日本的なみずみずしさがあるお寺である。三門もなかなか立派だったが… 撮影し忘れました。すみません。
『丸に唐撫子』
松前町内と福島町の墓地では撫子家紋が数軒みられた。この種類の紋にしては割合多い。
苗字こそ違ったが、なにか繋がりがある家系なのかもしれない。
それにしても墓頭に宝珠とはどういう意味なんだろうか。
普遍的な意匠なのか? 調べてみようか。
使用家は戒名ののみ刻印のため不明
『丸に対い?』
蝶にみえるが、意匠を考えると蝉にも見える
もともと彫が荒いものが経年によってさらにわかりにくくなっており判別不能である。
使用家名は戒名しか彫られていなかったため不明。
『丸に五枚竹笹に二羽雀』
見る度思うが、何故「竹」と「雀」という組み合わせなんだろう。
どちらも人里とともにある存在ということは共通しているが… 本当に『日本紋章学』を買った方がいいかもしれない。
使用家は佐川さん。
『中抱き鷹の羽に木瓜』
抱き鷹の羽は家紋辞典に基準になるものと細いものの二種類が載っていたがこちらはその中間程の太さということで上記の名称にした。
なにかの優勝旗にあしらわれていそうな紋である。
使用家は山本さん
なんともわかりやすい戒名だ。
昔から戒名は生前の特徴、行いからとっていたんだなー。
しかし、これがこの墓に眠る人間の最たる特徴だったと思うとなんとも言えない気持ちになる。
たぶん、生まれて間もなく天然痘か麻疹に罹って亡くなったんだろうな…
『上り藤に蛇の目』
蛇の目が何かの眼に見える。
紋の成分がきれいにまとまり、さっぱりとした印象を与える家紋だ。
使用家は加藤さん
『六つ矢車』
たまに見かける『八つ矢車』の兄弟。
使用家は矢澤さん 苗字からとった家紋の一つか。
『丸に撫子』
家紋辞典に載っている撫子家紋は中央部に隙間があるが、こちらはそれがない。
別種とするべきか、彫り込みの誤差かいつも判断に迷う
使用家は鶴ヶ谷さん
墓地奥に進むと雰囲気が一転し、住宅街の真ん中に荒涼とした墓地が並ぶという光景が広がる
どこか退廃感にあふれている。
町営の集合住宅か
失礼だが、場末の雰囲気というのだろうか。こんな鄙びた雰囲気が個人的に好きだ。
『丸に蔓花菱』
この墓地でも花菱、三つ葉柏、木瓜、藤の使用家が非常に多い。
使用家は本田さん
『分銅』
珍しい。 分銅とは天秤量りで使うオモリのことで、江戸時代はこのような形のものを使っていた。
家紋として使用された理由は、「ものを公正に計る」という意味合いが強い。
器物家紋のなかでも「分銅」がこの地にあるとは、さすが江戸以前から栄えた城下町である。
祖先が両替商をしていたとか言うならさらに興味深いのだが、そういった話を聞きにくいというのが墓による家紋調査のデメリットである。
使用家は西川さん。
正行寺墓地の位置は下をご覧ください。
より大きな地図で 墓地 を表示
北海道でもっとも古い歴史がつまった土地、松前町。 当然残っている墓の数、その年代の古さともに内地と引けをとらないものが揃っている。
北海道においてはここ以外の場所でほとんど見られない形の墓塔がいくつも立ち並ぶ。
これなんて弘化四年だと。幕末だが、北海道では古い部類の墓に入る。そして他にも「宝暦」「享保」などの年号が彫られた墓石がゴロゴロあるのだ。
余所の墓地ではまずありえない光景だから驚きである。さすが松前の名は伊達じゃない。
まずは松前町中心部の住宅街に位置するお寺、正行寺(浄土宗)から。
護念山正行寺は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)の造立とも言われ、松前氏がまだ改名する前―蠣崎氏と名乗っていた戦国・安土桃山時代にまで遡る古刹である。
当時の蠣崎家当主は五代目にあたる蠣崎季広であり、彼は父の代まで進めていたアイヌとの抗争を和睦し、宗派によらずに寺院を受け入れるという寛大な宗教政策を敷いた。正行寺の開山は岌西という浄土宗の僧侶であるが、その建立には季広の助力はもとより、淡路屋の丹下商人なる資本も使用され、寺にはこの丹下の伯父にちなんだ仏師:春日が彫った阿弥陀如来像も安置されたという。 商人資本や隔地間交易が下地となった寺院はそれまでの松前では例がなかったことであり、これは松前の歴史の中で大きな意味を持つと云える。
季広は先述の通り、特定の宗派を弾圧することもなく寛容な政策を採ったが、寺院の保護支援においては経済的、政治的裁量により果断な対応を示した。 このため、ほぼ同年代に同宗派である光善寺が建立された一方で、季広は正行寺を手厚い加護の元に置いたという。
境内を歩くと、どこか京都郊外のお寺のようなもの静かさと日本的なみずみずしさがあるお寺である。三門もなかなか立派だったが… 撮影し忘れました。すみません。
『丸に唐撫子』
松前町内と福島町の墓地では撫子家紋が数軒みられた。この種類の紋にしては割合多い。
苗字こそ違ったが、なにか繋がりがある家系なのかもしれない。
それにしても墓頭に宝珠とはどういう意味なんだろうか。
普遍的な意匠なのか? 調べてみようか。
使用家は戒名ののみ刻印のため不明
『丸に対い?』
蝶にみえるが、意匠を考えると蝉にも見える
もともと彫が荒いものが経年によってさらにわかりにくくなっており判別不能である。
使用家名は戒名しか彫られていなかったため不明。
『丸に五枚竹笹に二羽雀』
見る度思うが、何故「竹」と「雀」という組み合わせなんだろう。
どちらも人里とともにある存在ということは共通しているが… 本当に『日本紋章学』を買った方がいいかもしれない。
使用家は佐川さん。
『中抱き鷹の羽に木瓜』
抱き鷹の羽は家紋辞典に基準になるものと細いものの二種類が載っていたがこちらはその中間程の太さということで上記の名称にした。
なにかの優勝旗にあしらわれていそうな紋である。
使用家は山本さん
なんともわかりやすい戒名だ。
昔から戒名は生前の特徴、行いからとっていたんだなー。
しかし、これがこの墓に眠る人間の最たる特徴だったと思うとなんとも言えない気持ちになる。
たぶん、生まれて間もなく天然痘か麻疹に罹って亡くなったんだろうな…
『上り藤に蛇の目』
蛇の目が何かの眼に見える。
紋の成分がきれいにまとまり、さっぱりとした印象を与える家紋だ。
使用家は加藤さん
『六つ矢車』
たまに見かける『八つ矢車』の兄弟。
使用家は矢澤さん 苗字からとった家紋の一つか。
『丸に撫子』
家紋辞典に載っている撫子家紋は中央部に隙間があるが、こちらはそれがない。
別種とするべきか、彫り込みの誤差かいつも判断に迷う
使用家は鶴ヶ谷さん
墓地奥に進むと雰囲気が一転し、住宅街の真ん中に荒涼とした墓地が並ぶという光景が広がる
どこか退廃感にあふれている。
町営の集合住宅か
失礼だが、場末の雰囲気というのだろうか。こんな鄙びた雰囲気が個人的に好きだ。
『丸に蔓花菱』
この墓地でも花菱、三つ葉柏、木瓜、藤の使用家が非常に多い。
使用家は本田さん
『分銅』
珍しい。 分銅とは天秤量りで使うオモリのことで、江戸時代はこのような形のものを使っていた。
家紋として使用された理由は、「ものを公正に計る」という意味合いが強い。
器物家紋のなかでも「分銅」がこの地にあるとは、さすが江戸以前から栄えた城下町である。
祖先が両替商をしていたとか言うならさらに興味深いのだが、そういった話を聞きにくいというのが墓による家紋調査のデメリットである。
使用家は西川さん。
正行寺墓地の位置は下をご覧ください。
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