松前市街の東部、朝日地区と大沢の墓地家紋調査。
しかし、規模が小さくまた特徴的な家紋も少なかったため今回は実に内容がうすっぺらい。ご容赦ください。
まずは朝日地区。
国道から一足奥に延びる新道沿いに点在している。 比較的新しい墓地に感じた。
ほとんど例外なく桐、木瓜などの一般的な家紋で、多い順に五三の桐、三つ葉柏、木瓜、桔梗、梅となる。
『?』
文字系家紋かと思ったが見当らなかった。
なんとなく松前町のマークに似ているように感じるが、気のせいであろう。
使用家は八木橋家
ちなみにこの墓地には数か所入口があるが、どれもこれも異様に狭く特に近くの商店の方へ向かう出入り口なんぞそれはそれは恐ろしく窮屈な路地裏のような場所を通ることになる。
もちろん中に駐車場はなく、「近くに停めるとこないし、田舎だから中の方に駐車場があるんだろう」と安易に入り込んだりすると泣きをみる。 しかも道の途中に畑があり、高確率で地元の方が路肩に軽トラを停めているため、最悪の場合通り抜ける事すら不可能になる。 実際私はそうなってしまい、前進も後退も出来ない立ち往生に陥ってしまった。 幸運にも近くにそのトラックの持ち主の方がいたため助けてもらったが… 次も運が良いとは限らない。
もしこの記事を見ているどなたかがこの墓地に行かれる場合、絶対に墓へ続く横道に入ってはならないと警告しておく。 そんな人いないと思うけど一応…ね?
正直盆や彼岸のお墓参りはどうするのか現地にいながら思った。
新道の路肩に止めるのかね。
次 大沢地区墓地
国道沿いにあり、ドライバーの眼をひく墓地である。
この土地も比較的小規模で、家紋も一定のものに固まっている。多い順に木瓜、桐、三つ葉柏と云ったところ。
『花山院杜若』
菱型派生種に見えるが微妙に湾曲している。
『日本家紋総鑑』によればこれは「花山院杜若」と言って、藤原北家を起源とする公家:花山院家の使用した紋らしい。
そんなやんごとなき紋がどうしてこんなところにあるのだろうか。
花山院家と松前と言えば、江戸初期に猪熊事件により蝦夷地へ流罪になり、後に松前家と京の公卿との懇親を得るきっかけともなった花山院忠長のことが思い出される。
この家は忠長と何か関係があるのだろうか。非常に興味深い。
使用家は新井田さん。
墓地の奥にはまだ道が
まだ墓があるかも知れない。どしどし登る。
ちょっとした冒険だ。林の小道の先に未だ見ぬ光景を探す。 子供の頃を思い出してつい顔が綻ぶ。
その林の向こうには丘の畑が広がっていた。
道南の海岸地帯ではよく見かける風景だが、やはり惹かれるものがある。小さいころ、母が畑を撒いていた頃の記憶を引き出される。
今後、松前~上ノ国の墓地調査ではこのような場所を幾度となく見かけ、そのたび懐かしくなるのであった。
夏はこれからです。
朝日地区墓地位置情報
より大きな地図で 墓地 を表示
大沢地区墓地位置情報
より大きな地図で 墓地 を表示
八木橋家の家紋はぱっと見ですが、
「可文字」でしょうね。
ですから、「三つ可文字丸」というような紋名になりそうですね。