江差町で聞いた話である。
話者は70歳女性。上ノ国町石崎の出身であり、結婚して江差に移る。母は小樽、父は上ノ国町汐吹の出身。樺太よりの引き揚げ者である。


今より55年程前、小学生の頃の話だという。
当時石崎の中外鉱山(別記事参照)で勤めていた叔母の夫:松本某が落馬により死亡することがあった。突然の死に叔母は悲嘆にくれたそうだが、なんとか滞りなく葬式を済ませ遺体は荼毘にふされた。
しかし、いよいよ埋葬する段階になって叔母は死者の棺に履物を入れ忘れたことを思い出した。
彼女は新品の男下駄‐浴衣にあわせる下駄のことを買い、ナタで縦に真っ二つに斬るとちょうど卒塔婆を立てるように墓のうしろにかけたという。
墓にはみな鎌が刺してあったといい、この時も叔母は埋葬が済んだ墓に新しい鎌を刺し「鬼が来たらはらえ」と云った。 鎌は刺すだけでなく、実際に振るいながら先の言葉を唱えることもあったという。

余談になるがこの叔母の家系は少々因縁めいた死を辿る系図である。 最初は先の落馬に始まり、次はその息子が森町の林道工事中にブルドーザーに乗ったまま転落死し、その妹が函館に出掛けた際自動車事故により死亡、そしてさらに孫が墓地近くの町道でバイク事故により死亡という、全員「何かに載ったまま」死ぬ憂き目にあっている。
過去になにかあったというわけでもないようだが、ただ夫が死亡したあと数か月中親しい友人の夢枕に立つことが続いた。当時、夫の霊魂を呼びだしたイタコの話によると「友人を連れて行こうというつもりはない。ただ、後に残される者のことが心配で、あなたたちしか頼む人がいないのだから夢に出るのだ」と語ったらしい。

石崎では毎年墓参に来た者たちが、墓場の中で敷物も敷かずに馳走を食べ宴を催す習慣があったと彼女は最後に語った。


・以下、拙考察
道南の墓を巡っているうち墓に履物を置いてあるものを見かけることがよくあり、ここでも何度か取り上げている。しかしそれが道南特有の習俗であるのか、またそれがもつ意味をはっきりと調べられてはいなかったわけであるが、以上の話はこれを読み解くヒントになりうる。

野辺送りを行っていた当時、墓地へ棺を運んだ者は履物を脱ぎ置いて帰る習慣があったと聞く。これは悪霊がついてこないように、だとか死者の霊を連れ帰らないようにするからだと説明がされている。 が、これはあくまで置き帰るのは「墓地」であって個人的な「墓」ではない。
個人的には他、もっと単純に「死者が使っていたものを置いておく」とか「死出の旅のため置いてあげる」とか考えていたが、ならば棺に一所に入れれば済む話であり、恥ずかしいことにここで思考がストップしていた。
上記の事例は、この墓に靴をおく話を実際に経験した人のものであり、その心は「死者のために棺に入れるはずだった履物を入れ忘れたため、仕方なく墓のうしろに置く」ということであった。
そして「割る」というのが興味深い。 死者が愛用していた茶碗を割る風俗は全国で見られたそうだが、これはその類例である。
私が実際に墓地で見た履物は壊れていなかった。 長い間に「壊す」意味合いが薄れてしまったのだろうか…。

一方、墓に鎌をさす風習は全国でみられる。上記にあるようにその目的は「魔を払う」ためであり、主に土葬、または火葬への移行期にある墓地では今でも見られる。
火葬が主流となった土地が多くなった現在では、ほとんど廃れてしまった葬祭儀礼の民俗かもしれない。