家紋調査 …というより今回は墓石の調査になってしまった。
松前町西館地区に点在する墓です。


前回とりあげた専念寺墓地向かいの道路を奥へ進むと林道のような道になっていく。
その道中、西側斜面に墓石が点在する。


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まず一か所目。笠島家の墓である。

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ご覧の通り一族、又は個人のための墓と思われる。詳細は不明。
家紋は『丸に方喰』であった。






さらに進むと沢伝いの若干開けた地形になり、三基の墓石が立っている。

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見事な彫刻である。

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調べたところ、この墓は『間宮丈察』なる人物のものであるようだ。
中央の墓石には墓碑銘と共に「門弟中」との文字が彫られ、この人物が何らかの学問、又は芸能を修めたものであることが推測される。
しかし、町史に一切記述がなくなんとも謎多い人物である。


その隣の墓は「竹本菊太夫」という人物のものであった。こちらは大坂から松前に渡り、この地で没した義太夫節の太夫である。 義太夫節とは、浄瑠璃の一派で播磨節や小唄を合せた勇壮な調子がその特徴である。
「竹本菊太夫」はその演者の一人であった。名は四代続いたようだが、この墓に眠る人物が何代目なのかはハッキリとわからない。

しかし、ひっそりと亡くなったという記述と名の断絶という事柄に相関を見出せば、おそらくこれは四代目ではないだろうか。
墓碑に「ごひいきの 島つき 思ひをまつ前○(判読不可) 志るしを残す 菊の碑」という辞世の句が彫られており、その生涯の最期は必ずしも喜ばしい形ではなかったことを想起させる。 なんとも物悲しい。


そして三基目には、「七代 権譽」とあり、施主は「八代 五朗治」となっている。
苗字が無いためなんとも言えないが、日本で初めて種痘術を行った松前の偉人:中川五郎治と施主が同名である… しかし、上記の笠嶋家の墓碑にも「九代目 五郎治」とあり、関係性があるとすれば後者の方がより有力だ。

「夢さめて 雲の晴間や 冥土島」という辞世の句が彫られ、こちらも親子あるいは師弟関係ではないかと推測される。



総括して、これらの墓は松前にゆかりのある俳壇や芸能関係者、または学者たちの墓地と推測できる。
しかし、なぜわざわざこのような人の目に付きにくい場所に建てたのか。そのいきさつは一切不明である。 松前町史は芸能の項も豊富であるにも拘らず、これらの人物に関してまったく記述がないのも痛い。




さて、この道の最奥には、お堂が… 本当によくわからない場所だ。

お、地蔵車だ。
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卒塔婆に車輪を取り付けたもので、これを廻すと死者の供養になるという。
なんだかチベットのマニ車を思い出す、東北~北海道の民俗である。



なんだかいまいちスッキリしない記事となった…。
お墓は実に謎多い。



最後に今回訪ねた墓の位置です。

 
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