知内町の、とある民宿の女将さんが体験した話である。



昭和50年頃、彼女がドライブインの経営を始めようとした時期である。
よく夢に奇妙な形をした石碑が現れる事が続いた。それは紀念碑のようなものではなく、上面部がなだらかな錐のように尖った正方形に近い墓石のような形をしていた。

何か因縁めいたものを感じた彼女は、菩提寺の福島町法界寺に相談したが原因は解らなかった。
しかし、郷土史を調べて見れば何か手がかりが摑めるかもしれないと助言され、当時開館したばかりであった知内町郷土資料館に足を運んだ。
そこで彼女の話をもとに学芸員が調査したところ、江戸後期に町内で遭難した南部藩兵供養の石碑ではないかという結果がでた。
これは江戸後期、頻発する外国船侵入事件を憂いた幕府が、享和二年(1802)に北方警備のため南部藩兵を派遣することがあり、その途中で暴風に遭って現在の知内町中ノ川付近で沈没、多数の死傷者が出たことを供養する碑である。


その形はまさに彼女が夢でみたそのものであって大層驚いたそうだが、何故これが「彼女」の夢に出たのかは未だに謎である。 というのも、彼女自身この碑にまったく関係がないからである。
彼女の親類、または先祖が南部藩出身ということもなければ、土地にゆかりがあるというわけでもなかったのだ。

この碑は最初、中ノ川の鶴賀見吉氏の畑の中にあったが、耕作の邪魔となり建川地区の国道脇の防風林の中に移設という名目でほったらかしにされていた。 その後、昭和38年5月に当時の大乗寺の住職、吉田霊源氏が憐れに思って同寺院の境内に移設した。
しかし、建てられた当初から畑の中にあったのか定かでないので、もしかすると本来の位置は彼女が商売を始めようとしていた場所なのかもしれないという話である。

関係性は不明であるが、その場所は町内で「何をやってもうまくいかない場所」として有名であった。
ところが彼女が商売を始めた限り、その経営が傾いたという話は聞かない。

土地の持つ「記憶」と、彼女の持つ第六感の「アンテナ」の間で「チャンネルが合った」とでもいうのだろうか。
実に不思議で不可解な体験談である。



※以下仔細

南部藩遭難兵供養の碑の由来は上記にもあるが、改めて下の通りである。

享和二年(1802)、幕府の命令により蝦夷地警備の為、南部藩兵88人が目付:上田軍左衛門に率いられて青森の野辺地を3月16日出航、箱館へと向かった。
しかし途中暴風に遭い漂流、17日に現在の北海道知内町、森越中の川に漂着沈没した。
乗組員88人のうち、目付上田軍左衛門以下47人(知内町史では41人)が溺死。33人が負傷。そのほかにも多数の軍備、資金を流出した。 これを同地域の住人挙げて救助にあたり、金子はすべて回収、救助者は後南部に帰国した。

この死傷者を供養するものが「南部班遭難兵供養の碑」である。nanbu
石造四角の墓碑形式であり、高さ45.5センチ、幅41センチで、二つの台座がついている。 知内村の者が建てたのか、南部藩の者が建てたのかは解っていないが、岩手出身の知人によると「地元でよく見た記憶がある形だ」という。助かった南部藩兵が亡くなった同胞を想って建てたのかもしれない。

碑面は判読が不可能なほど摩耗しているが、かろうじて「○○禅定門」という名が約30人ほど細かく刻まれている。死者の戒名と云われている。
一方、年号は判読が可能で「享和二年壬戌三月十七日」と読み取れる。南部藩兵遭難の日付である。



参考
『知内町歴史散歩』 知内歴史研究会 ㈱長門出版社 1994年 103pp
『知内町史』 知内町役場/株式会社JICC  北海道印刷企画株式会社 1986年 1020pp