休みを利用して、久しぶりの廃墟探索に出掛けました。今回の目的地は…八雲町は黒岩中学校。片道100キロ越えの旅路。知人の学芸員氏のツテをたどる。
道民にとって100キロちょっとの道のりは「ちょっと近所へ」という感覚なので別に大したことではないのだが、少し天候が悪く風も強かったので、なかなか危険なドライブになってしまった。八雲は平野が多いので地吹雪になりやすいのだ…
今回尋ねた「八雲町」という自治体名は、言葉の響きからおわかりなように完全な和語地名である。
その始まりは明治11年、維新により家禄を失った尾張徳川家と藩主:徳川慶勝が、新天地を夢見てこの地へ移殖した際にスサノヲの詠んだ和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」から取ったことに由来する。
彼らの努力の甲斐もあり、現在では道南最大の面積を持つ一大酪農地である。
そんな八雲町の中でも、隣の長万部町に接続する黒岩地区。酪農よりも漁業が盛んな海沿いの土地だ。
ここに残るのが黒岩中学校である。国道沿いだが林に囲まれているため目立たない。

では行きます。
門柱って寄贈するものなのか。

隣に現役の小学校があり、その敷地内ということになっているのかある程度の雪かきがなされている。
堅雪で歩きやすい。
正面

黒岩中学校は昭和22年5月に「八雲中学校黒岩分校」として、黒岩小学校に併置されたのがその初まり。
翌23年4月に独立して「黒岩中学校」になった。当時は小学校長が兼任で、28年6月に専任校長が就任した。
31年6月に小学校が建て替え独立し、中学校は完全な独立校となったが、この校舎はすでに老朽化が進んでおり移転移築が望まれていた。38年、国道5号線の拡張工事によりようやく移転が実現。翌39年、今に残る木造平屋建て822.36㎡の校舎が完成したのであった。
昭和40年頃まで全校生徒数は100人を超えていた。しかし、時代と共に徐々に生徒数が減少というお決まりのルートに陥り、平成16年ついに閉校と相成った。
アレが黒岩小学校。

生徒玄関。
しかし板で閉鎖されているので入れない。

校章
ペンの意匠?

雪に埋もれた校庭と記念碑。
エゾマツと風雪は北海道の原風景。

教員住宅かね。

奥の青いものは小学校の施設。
このところの暖気で屋根の雪が落ちて硬く締まっているので、歩きやすい。

ここは水飲み場の跡地らしい。 正面は体育館。 右手に廊下。

おお全面板張り。
左手はトイレか。
さすがにここはコンクリ床。

寒そうなトイレだ。

トイレ一つ見ても、趣き深い。
あの戸板、実にいい。

もがり笛が絶え間なく響き渡る。

ボットントイレらしいあの饐えた臭いはしない。
最後に交換されて、何年経つのだろうか。

体育館と教室棟への分岐点。
卒業製作がいたるところに飾られている。

なんだかなあ…
廃校に来るたび、廊下に魅せられている気がする。

校長室らしい。
廃校につきものである歴代校長の集いはなかった。

漁村らしく魚拓が飾られている。

新聞の切り抜きが張られたままになっている。

地引網は私の母校でも恒例行事であった。
お、木彫り熊か

北海道のお土産として有名なこの木彫り熊。 実はこの八雲町が発祥の地である。
先述の尾張藩士たちだったが、慣れない農業と原野の開拓には想像を絶する苦難が伴い、満足な収穫がないまま冬を迎えてしまうこともしばしばであったという。
そんな惨状を見た当時の尾張徳川家当主:徳川義親が、冬場の収入源として考案したのがこの木彫り熊だった。徳川義親は大正13年にスイスへ旅行し、この時購入した木彫りの熊を工芸品として生産販売することを提案したのだ。 東北や北陸に発達した副業的伝統工芸と同じ発想である。
学校教育でこいつを彫るというのもわかる話だ。郷土の誇りってやつよ。
なんとなくこの曲線がいい。
モダン。

雪の照り返しが強いので、ちょっとした露出の度合で色合いまでまったく変ってしまう。

隣は放送室か。これは面白い設備。

なにやら良くわからないタグが大量に

奇抜なポスター。でんきほあんきょ~か~い(ご当地CMソングです)

放送室というより、資材室?

奥は休憩室らしい

生活感がする。
昔は宿直室としても使って居たのだろうか。

職員室。
教室棟では最も物が残って居る。

どちらがお好み?

現実は前者の方が近い。
鍵も資料もそのまんま。地域事業でも既に使っていないようだが、大丈夫なのか?

調べてみると、廃校になった年に賃貸料月3万円で借り手を募集したそうだが結局誰も手を上げなかったそうな。もったいない。
最後の予定表。
一見感傷的だが… 教頭先生に一体何が

女の子の字?

記念文集と指導用資料が散乱。

『国民の歴史』 面白そうな本じゃないか。
床に散らばる紙類 其の中には生徒作品やポスターも

宿泊研修かなにかで行ったのだろう。
中学校でこのグラスはいいものだろうか(いいんです)

窓口。職員兼業務玄関
電話線がいまだに生きていることに驚いた。

いい棚だな。
博物館や図書室に入れると映えるぞ。これは。

廃校の窓辺はいつも物悲しい。

消火器が無事に残って居る。荒らされていない証拠だ。
中学生で「こころ」とはやるのう。

廊下から体育館が見える。
あちらはさすがに鉄筋コンクリート製。

昭和43年12月の完成である。
これも卒業製作かな?
ちょっと怖いぞ。

職員玄関。今は締め切り。

学校のポストはどこでも腰がやたらと低い。
百井学校でも、ねぎらいの言葉が並んでいた。

なんとも木のぬくもりに包まれた建物だ。

すり磨かれた床板の味。
文字数の要領の関係で分割します。
その2へ続く…
http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51812779.html
道民にとって100キロちょっとの道のりは「ちょっと近所へ」という感覚なので別に大したことではないのだが、少し天候が悪く風も強かったので、なかなか危険なドライブになってしまった。八雲は平野が多いので地吹雪になりやすいのだ…
今回尋ねた「八雲町」という自治体名は、言葉の響きからおわかりなように完全な和語地名である。
その始まりは明治11年、維新により家禄を失った尾張徳川家と藩主:徳川慶勝が、新天地を夢見てこの地へ移殖した際にスサノヲの詠んだ和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」から取ったことに由来する。
彼らの努力の甲斐もあり、現在では道南最大の面積を持つ一大酪農地である。
そんな八雲町の中でも、隣の長万部町に接続する黒岩地区。酪農よりも漁業が盛んな海沿いの土地だ。
ここに残るのが黒岩中学校である。国道沿いだが林に囲まれているため目立たない。

では行きます。
門柱って寄贈するものなのか。

隣に現役の小学校があり、その敷地内ということになっているのかある程度の雪かきがなされている。
堅雪で歩きやすい。
正面

黒岩中学校は昭和22年5月に「八雲中学校黒岩分校」として、黒岩小学校に併置されたのがその初まり。
翌23年4月に独立して「黒岩中学校」になった。当時は小学校長が兼任で、28年6月に専任校長が就任した。
31年6月に小学校が建て替え独立し、中学校は完全な独立校となったが、この校舎はすでに老朽化が進んでおり移転移築が望まれていた。38年、国道5号線の拡張工事によりようやく移転が実現。翌39年、今に残る木造平屋建て822.36㎡の校舎が完成したのであった。
昭和40年頃まで全校生徒数は100人を超えていた。しかし、時代と共に徐々に生徒数が減少というお決まりのルートに陥り、平成16年ついに閉校と相成った。
アレが黒岩小学校。

生徒玄関。
しかし板で閉鎖されているので入れない。

校章
ペンの意匠?

雪に埋もれた校庭と記念碑。
エゾマツと風雪は北海道の原風景。

教員住宅かね。

奥の青いものは小学校の施設。
このところの暖気で屋根の雪が落ちて硬く締まっているので、歩きやすい。

ここは水飲み場の跡地らしい。 正面は体育館。 右手に廊下。

おお全面板張り。
左手はトイレか。
さすがにここはコンクリ床。

寒そうなトイレだ。

トイレ一つ見ても、趣き深い。
あの戸板、実にいい。

もがり笛が絶え間なく響き渡る。

ボットントイレらしいあの饐えた臭いはしない。
最後に交換されて、何年経つのだろうか。

体育館と教室棟への分岐点。
卒業製作がいたるところに飾られている。

なんだかなあ…
廃校に来るたび、廊下に魅せられている気がする。

校長室らしい。
廃校につきものである歴代校長の集いはなかった。

漁村らしく魚拓が飾られている。

新聞の切り抜きが張られたままになっている。

地引網は私の母校でも恒例行事であった。
お、木彫り熊か

北海道のお土産として有名なこの木彫り熊。 実はこの八雲町が発祥の地である。
先述の尾張藩士たちだったが、慣れない農業と原野の開拓には想像を絶する苦難が伴い、満足な収穫がないまま冬を迎えてしまうこともしばしばであったという。
そんな惨状を見た当時の尾張徳川家当主:徳川義親が、冬場の収入源として考案したのがこの木彫り熊だった。徳川義親は大正13年にスイスへ旅行し、この時購入した木彫りの熊を工芸品として生産販売することを提案したのだ。 東北や北陸に発達した副業的伝統工芸と同じ発想である。
学校教育でこいつを彫るというのもわかる話だ。郷土の誇りってやつよ。
なんとなくこの曲線がいい。
モダン。

雪の照り返しが強いので、ちょっとした露出の度合で色合いまでまったく変ってしまう。

隣は放送室か。これは面白い設備。

なにやら良くわからないタグが大量に

奇抜なポスター。でんきほあんきょ~か~い(ご当地CMソングです)

放送室というより、資材室?

奥は休憩室らしい

生活感がする。
昔は宿直室としても使って居たのだろうか。

職員室。
教室棟では最も物が残って居る。

どちらがお好み?

現実は前者の方が近い。
鍵も資料もそのまんま。地域事業でも既に使っていないようだが、大丈夫なのか?

調べてみると、廃校になった年に賃貸料月3万円で借り手を募集したそうだが結局誰も手を上げなかったそうな。もったいない。
最後の予定表。
一見感傷的だが… 教頭先生に一体何が

女の子の字?

記念文集と指導用資料が散乱。

『国民の歴史』 面白そうな本じゃないか。
床に散らばる紙類 其の中には生徒作品やポスターも

宿泊研修かなにかで行ったのだろう。
中学校でこのグラスはいいものだろうか(いいんです)

窓口。職員兼業務玄関
電話線がいまだに生きていることに驚いた。

いい棚だな。
博物館や図書室に入れると映えるぞ。これは。

廃校の窓辺はいつも物悲しい。

消火器が無事に残って居る。荒らされていない証拠だ。
中学生で「こころ」とはやるのう。

廊下から体育館が見える。
あちらはさすがに鉄筋コンクリート製。

昭和43年12月の完成である。
これも卒業製作かな?
ちょっと怖いぞ。

職員玄関。今は締め切り。

学校のポストはどこでも腰がやたらと低い。
百井学校でも、ねぎらいの言葉が並んでいた。

なんとも木のぬくもりに包まれた建物だ。

すり磨かれた床板の味。
文字数の要領の関係で分割します。
その2へ続く…
http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51812779.html