菅江真澄の著作『えみしのさへき』に登場する話である。


真澄は寛政元年(1789年)の春、北への旅に向かった。
その目的は北海道最古の山岳霊場と名高い太田神社へ参詣するためであり、松前へ渡ったあと日本海沿いの道を江差、熊石を経由して同年4月19日に太田山に入った。そして神社本殿がある断崖の窟屋で数日間滞在した後、再び江差を経由して帰路についた。
この道中記が『えみしのさへき』で、当時の人々の生活模様を中心とした民俗、伝説、地名の由来等を、筆者の和歌などを交えて記録した紀行文である。 真澄による他の著作と同様、文学的価値はもちろん史料的、文化的価値も非常に高いものだ。

その中の同年6月7日、復路に上ノ国を通りかかった時の記述である。


 「七日 戸外に軒をならべているある家の障子に、七里酒と書いてあるものは、どんな酒をいうのかとその家の主人に問うと、笑って
『この島には稲田がなく、米はよその国から運ぶため乏しいので、濁酒を造ることは島の規則でかたく禁じています。
それで酒を秘密に売るのに、こう七里酒と書くのは、二里五里の酒であるという意を人によみとかせたり、あるいは酒という文字に濁点をうって人に知らせているのです』
と語った。
(『菅江真澄遊覧記(2)』より)


挿絵として、真澄本人による簡易な図が併記されている。

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江戸時代の看板や広告には、一杯16文で食べられるから「二八蕎麦」や、道場が「見るだけ結構、手合せ御免」という意味で、輪に鎌を通した図に「ぬ」の字をくっつけて「構わぬ」と読ませたりなど、洒落やとんちを効かせたものが多くみられる。

この「七里」は「にりごり」、つまり「にごり」。 「酒゛」で「にごりざけ」というのも一種の洒落。
うまい言葉遊びだ。


ちなみに「この島で米がとれない」とあるのは、北海道は気候が厳しく、明治時代初期まで稲作はほとんど不可能だったためである。




『えみしのさへき』の中で「七里酒」に関する記述はこれで終わりだが、真澄が後年雑葉をまとめた『混雑当座右日抄』にさらに詳しい話が載っている。

古文のままになるが載せておきたい。([]内筆者註)


 「松前の島は米とぼしけれ、濁醪酒をかもしひさぐ事を禁てうる店なかりしに、安永のころ、湯殿沢[現北海道松前町の一地区]という町に濁酒を隠し売る店あり。
 門のあかりさうじに、酒あり、しか酒といふ字に濁りを点をうちて書たり。にごりざけてふこころをしらしむ。
 こを役人聞しりたれど、うべもさるものとし、しらぬよしにて聞く置となん。
 また西磯の上国浦人、濁酒をかくして七里酒といふ看板を出したるを、役人いかなる酒なれば七里と書しぞ。
 [浦人が言うには]是は出羽の大山の鬼ころし也。水滸伝に在る三椀不可岡といふ酒にひとしく、一盃飲めば七里酔酒也。めし給へといへば、
飲む人なれば、かはきたる咽へ一ツほして、是は濁酒也。大山の鬼ころしと、いかに偽りいふものかと言へば、
さればさふらふ、濁酒を禁ぜられてさふらへば、それとかへして、七里とは二里五里酒といへば、役人も七里によひ、二里五里をしらぬふりして銭なしに飲みて去にしとなむ」



古典によくいる「一杯喰わされた人」の行動は、ある種の美学。


参考文献
・菅江真澄 (内田武志、宮本常一/編) 『菅江真澄遊覧記 (2) 』 平凡社 2000年
・松崎岩穂 『上ノ国村史』 北海道檜山郡上ノ国村役場 1978年
・高村五郎 『時代を映す看板』 里文出版 1997年