洲根子岬を越えたあたりで夷王山麓へ向かう道に入ると上ノ国町の火葬場がある。
ここにも隣接して墓があるが、ごく最近造成した墓地のようで4、5基の墓塔を除いてほかに見るべきものはなかった。
当地から乙部方面を臨む。
地図で言うと、渡島半島の日本海側にあたる部分だ。
元の道に戻り、国道沿いに道の駅「もんじゅ」、笹波家等を通過すると、右手に松前山清浄寺が見えてくる。『北海道寺院沿革誌専念寺由緒』によれば天文五年(1536年)頃に建立された小庵がその開基で、現在の本堂は明和三年(1766年)五月に完成したものだという。
かつてこの一帯は「倉町」、「倉ヶ丘」と呼ばれていた。その名の通り小高い丘の上に板倉が立ち並ぶ場所で、かつて鰊漁に使った漁具を保管していたものが、現在でも農具倉庫などに転用されて残っている。
何故わざわざ山あいに建てられているかというと、市街地の母屋と離すことで万が一火事や津波が起こっても生業用具や備蓄した食料は残るという配慮によるそうだ。 道南の街は昔から大火が多く、また寛保元年(1741年)には松前大島の噴火に伴う津波で日本海側に死者1500人近くが出た記録がある。
先人の防災対策なのである。
イタドリやオオウバユリ、エゾニュウの茂みに囲まれて佇む倉壁の、白く褪せた様子なんかを見ると、過ぎ去った歳月の重みを感じずにはいられない。
これらの倉は「畳み倉」「落とし倉」といって全国でも珍しいものだ。
特殊な構造と符丁により一度建てても楽に解体して移築することが可能なシロモノで、漁場から漁場へ渡り歩く鰊漁師たちに重宝された。日本海がにぎわっていた時代の遺産なのだ。
現在この板倉群には、風雨大雪などにより倒壊、または解体されたり、トタンに葺き替えられたりするものが目立って来ている。
鰊で栄えた昔の気風を感じられるのも残り少ない時間なのかもしれない。
北海道では瓦屋根の建物もなかなかお目にかかれない。
さて、そんな倉町界隈にある清浄寺裏手の墓地が今回の調査地だ。
「笹波」の苗字がある墓が数基あり、かの旧笹波家嫡流の家系の墓もこの中にあるのかもしれない。
・『丸に桜』
桜種家紋の基本形。
特にコメントなし(おい)
使用家は出村さん。
・『丸に三つ輪違い』
数の多さでは中堅どころの家紋。
輪を自在に通したり引き抜いたりする手品。アレってどうやってるんでしょうね。
使用家は見た通り米澤さん
・『変わり枝笹』
珍しい変種家紋。
根笹の変種はたまにみかけるが、枝笹となるとみたことがない。
確か旧笹浪家に使用されていた釘隠しがこれと同じ意匠であったような気がするが自信がない。
次回あちらに出向く際確認したい。
笹の家紋だが、使用家は金子さんである。
・『丸に篠笹』
篠笹の基本種家紋。 大きい霊園で探せば一軒は見つけられる。
ここでは基本種だったが、篠笹、根笹家紋は一般的な事典でとても網羅できないほど変種が多い。 苗字で言えば「渡辺」や「斉藤」のようなものである。
専門事典を作ってみるのも面白いかもしれない。
使用家は西川さん
・『尻合わせ三つ花桐』
こちらも珍しい桐家紋
2013年現在、道南地方で確認できたのはこの墓地のみである。
墓地内で最も高く離れた場所にあったので、危うく見逃すところであった。
使用家は波佐谷さん
・『丸に小の字菱』
野球ボールではありません。
なかなか見かけない家紋だが、道南では日本海側の墓地でいくつか使用する家を発見できる。
使用家は小山さん
そこまで大きくない規模の墓地だったが、かなり珍しいものを記録できた。
所在は以下。
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祖母に縁のあった方のルーツを辿っていてここに辿りつきました。
お寺の名前はあやふやだったのですが、お世話になった方の名前は波佐谷さんと覚えていて、お陰様でめぼしがつきました。
波佐他さんの家紋も珍しいものですが、由緒のある方だと思います。