上ノ国町向浜地区は大留地区から海へ向かった先に存在し、昭和10年の地番改正で新たに宛てられた地名であるそうだが、一説によるとアイヌ語で「ふさがる」ことを「ムッカ」「ムク」「ムー」というそうで、天ノ川や目名川の河口が砂でふさがりやすいことと何か関係があるかもしれない。

そんな地形を利用して、向浜は江戸時代から木材の搬出加工販売を続けて栄えたが、昭和11年に江差線が開通してからは伐木の流送が行われなくなり、またイワシやニシンも年々減少していったので現在では神社以外特にめぼしい施設もない小さな集落となっている。
この神社は「川裾神社」といい『笹波家文書』によると天保2年の創建。 道南に広く分布する「カワシモさま」の神社で、主に女性の信仰をあつめている。



墓地は神社と同じ並びの浜沿い。
写真奥、盛り土のすぐ向こうには日本海が広がっている。

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比較的小さな墓地。




『丸に一つ蓮の花』

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探せば意外に多く見つかる家紋。
地域にもよるが、15ヶ所に1つくらいの割合だろうか。

使用家は新岡さん。




『丸に三つ盛り亀甲に花菱』

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一方こちらは意外に少ない家紋。
着物の柄なんかでは見かけることが多いのだが。

使用家は木村さん。




『一重瓜に木瓜』

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木瓜との違いは、箪笥の取っ手のような部分がない所。
↓比較用
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気を付けていないと見落としがちである。一日中家紋調査をして集中力が下がっている時なんかにこうした家紋に出会うと少しまずい。

使用家は小倉さん。



墓地の場所は以下。


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今回は隣の北村地区の墓地も一緒に取り上げる。


こちらは目名川の右側に位置し、由来は『新羅之記録』に「…天河の川北洲崎の館に居…」とあるように「天ノ川の北」からきていると思われる。
川沿いの肥沃な土地で、住民は林業や漁業で生計を立てるかたわら古くから畑作も行っていた。 天保14年には上林峰右衛門と北川喜五兵衛が水田開発に成功し、安政3年には村内の炭焼沢で新村久兵衛が新田開発に着手。 弘化年間に村を訪れた松浦武四郎は著の『再航蝦夷日誌』に「北村…人家七十五軒と有ども是は大ニ減じたり。…木古内より越来る人馬は此処に而越立る也。…畑も近年追々開けて畑作多出来る也」 「北村より平路、樹木多し。…畑は皆豆、黍、稗、粟、馬鈴芋等を作り有る也。柵を結て馬の入らぬ様致し有る事也…また畝に麻苧を多く作りたり」と詳細な記述を残しており、北海道の農業黎明期の様子を知ることができる。
明治大正以降はニシンの不漁により転業者や造田地がさらに増え、大正7年には片石又五郎が目名沢の水田で耐病性に優れた「片石米」を生み出した。
今なお土地の基幹産業は農業であり、そのためかあまり開発の手が入り込んでおらず古い家並も多い。

(古民家の写真も撮ったのだが、保存していた媒体が損壊してしまったので利用不能。…ぐぬぬ)



墓地は国道に隣接する場所。
土地の特徴とは逆行して海の近くである。

ここにも境界の枯れ木が立っていた。


『下り藤に蔦』

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寄木家紋の一つ。

使用家は竹内さん。





『竜胆車』

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曹洞宗の宗紋(久我竜胆)に似た家紋。
鹿部の墓地でも見かけた。


使用家は村上さん。





『丸に三つ銀杏』

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銀杏というとイチョウの実をいう事が多いが、ここではイチョウそのもののこと。
本当かどうか定かでないが、徳川家も葵紋を使う前は銀杏紋だったという話がある。

道南では銀杏紋を使用する家は少ない。


使用家は上林さん。




北村の墓地位置はこちら。


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さて以上で上ノ国の家紋調査とはしばらくお別れであり、次回からはまた松前町へ戻り城下の墓地調査の分となる。
調査時の時系列で更新するからこういったややこしいことになるのだが、管理人が変なこだわりを持っているのでどうかご容赦願いたい。(日本語も変…)