ついに今回から松前城下の墓地に入ります。
訪問順の関係で既に正行寺と法華寺の分は済んでいますが、ここからですよ。ここからが本番…。


松前城
見学用入口。訪問時は江戸後期の松前藩家老、蠣崎波響による『夷酋列像』の特別展が催されていた。

P1140877

 松前は北海道内で和人による歴史を組む最古の土地の一つで、その始まりは少なくとも室町末期の安東氏による蝦夷地経営の本拠地であった頃まで遡る。
 文禄2(1593)年のコシャマインの乱の後は蠣崎氏が大館(今の徳山大神宮所在地)へ移住し、慶長9(1604)年に松前(蠣崎)慶広が徳川家康から黒印制書を受けたことで松前藩が成立して以降、松前は明治維新を迎えるまで約250年以上の長くにわたって蝦夷地の政治、経済、文化の中心地として繁栄し続けた。

 米の生産さえままならない日本最北の藩にあたってその賑わいを支えたのは豊富な水産資源であった。松前藩は有力家臣に米の代わりに「場所」と呼ばれる漁場の経営権やアイヌとの交易権を与えて、そこから得られる利益を禄にするシステムを作って藩を経営したのである。
 これには北前船が活用された。北前船は日本海まわりで蝦夷地の水産物などを仕入れて瀬戸内や畿内へ戻る交易船で、その船主ともなれば莫大な利益をあげるのも可能だったことから、江戸初期に登場して以来一気に物流が促進され、同時に寄港地へ品物だけではなく上方の高度な文化がもたらされることとなった。
 蝦夷地においても松前や江差などには近江商人たちの屋敷が立ち並び、一時期は藩士に至るまで華美な振る舞いが浸透してその文化レベルは京都と並ぶとまでたたえられたという。

 松前はまさに北海道の中心であったのだ。


 ところが明治元(1868)年から2(1869)年にかけて松前城下は箱館戦争の戦火にかかり、寺社を含む城下街の2/3が焼失した。これを契機に松前の賑わいは翳りを見せ始める。
 同年、松前藩主は津軽へ亡命し、翌年五稜郭の旧幕府軍が降伏したあとも財政は困窮を極めた。海産資源の減少や政治経済の中心地が札幌や函館へ移り、商人たちも次第に姿を消していった。
 維新の混乱の中、多くの人命、史料が散逸し、繁栄は失われたのだ。 それから既におよそ150年の時が経ち、松前は今静かなたたずまいを残した港町の姿になっている。


 しかし、それでも残るものがある。それは城下の5000基を超える江戸時代の墓塔である。

 近世以降の墓の多くは石製で文字が刻まれており、中世以前の墓のように土の下を掘り返してみずともある程度の情報が読み取れる優れものなのだ。 特に松前の場合、先の理由で明治以降の新たな墓や建物の建設が少なく、保存状態もよい。

 話によると、各寺で江戸時代の過去帳も保存してあるので照らし合わせればさらなる詳しい調査研究もできるそうである。

 だらだらと長くなったが、松前城下のお墓から家紋だけではなく、江戸期の世相や文化も読み取っていこうというわけである。(いつもと変わらねえじゃねえか!)
 そう、広く浅く軽く… 



 
 では行きましょう。 松前町、旧萬福寺墓地です。


P1140881

 萬福寺は真言宗の寺院で元和2(1616)年、阿吽寺の末寺として創建されたが、明治元年に箱館戦争の戦闘で焼失し、明治4年までに阿吽寺の合寺となった。
 今でも墓地は阿吽寺によって管理されている。
 


『丸に下り藤』

P1140883
 特に珍しい家紋ではなく、むしろ最も多い部類のものに入る。
 が、たまには改めて紹介したい。いつも端折っているのだし。

 ※いつかも書いた告知ですが、道南の墓地で圧倒的に多い家紋(具体的に言うと「五三桐」「上がり/下がり藤」「木瓜」「隅立て四ツ目」「違い鷹ノ羽」「蔦」「橘」「三つ葉柏」などのこと)は何か事情がない限り敢えて載せておりません。 ご了承下さい。

 この下がり藤の使用家は羽二生さん。




『丸に四ツ目菱』

P1140885
 隅立て四ツ目に比べると大分数が減る。

 使用家は品田さん。




『丸に一枚柏』

P1140887
 柏家紋の中ではそこそこ見かける。
 やはり圧倒的には多いのは三つ葉柏、違い柏、抱き柏である。

 使用家は工藤さん。





『丸に三つ葵』

P1140890
 某御老公のせいで日本で一番有名な家紋か。
 その割に使用家が少ないのは、明治になるまで他家はもとより庶民が使用することが禁じられていたため。 10ヶ所に1軒の割合である。

 菊紋も同じ理由で使用が禁じられていたそうだが、葵に比べて現在使用する家の数は非常に多い。 なぜなのか…

 使用家は落合さん。




 さらに墓地の片隅にこのような石像が。
 周囲に一石五輪塔と宝篋印塔、無縫塔が数基立っていた。

松前公園、阿吽寺に向かう道近くの墓地にある浮き彫り墓石

 松前城下の墓地にはいくつかの石廟型墓があり、これも倒壊したそれの内壁と十三仏(死者が成仏する過程で仏徳を授ける13の仏のこと)だと思われる。

 石廟型墓は加賀前田家のものをはじめとして主に北陸地方に分布し、北陸三県のほか高野山、京都、滋賀、新潟、佐渡に残っているが山形、秋田、青森では確認できないという。
 また、この石廟の材質は笏谷石で、よく北前船のバラストに使われ寄港地へ持ち込まれていた。
 道南でも江戸中期~明治大正にかけての墓によく笏谷石が用いられているが、この石廟も当時の日本海交流を証明するものといえよう。




 …と、まあ松前城下の墓地を数回こんな感じでやっていきたいと思います。 素早く、読みやすくまとめる力が欲しいッ

 今回の墓地の所在です。


より大きな地図で 墓地 を表示



参考文献
・松前町史編集室/編 『松前町史』 1997
・北海道立文書館/編 『北海道史略年表』 北海道 1988
・知内町役場/株式会社JICC 『知内町史』 北海道印刷企画株式会社 1986
・高田宏 『日本海繁盛記』 岩波書店 1992
・関根達人 『松前の墓石から見た近世日本』 北海道出版企画センター 2012

協力
・松前町教育委員会 松前町郷土資料館学芸員 佐藤雄生氏