法源寺は福山城北の寺院群のほぼ中央に位置する曹洞宗の寺院。
『法源禅刹縁起』によると文明元(1469)年に若狭国(現在の福井県)の禅僧:随芳が奥尻島へ渡航して草庵を結んだことを開基とする。その後延徳2(1490)年に松前大館へ移り、蠣崎(松前)家の菩提寺になった。
慶長11(1606)年の福山館完成後は大館にあった寺町も元和3(1617)年~同5(1619)年にかけて移されることとなり、法源寺も現在の場所に再建された。
残念ながら本堂は慶安2(1649)年と、明治元(1868)年の戦火により焼失した後新築されているが、一方で三門は杮葺き切妻造の当時のものであり、北海道では数少ない江戸時代初期から中期の建築物と言われている。 北海道指定有形文化財なのだ。
…画像ですか? 指定有形文化財は一般人が撮影してはいけないんですよ。いけないんですよ。
嘘です。撮り忘れたのです。 実際の調査時からここにあげるまで一年以上の時間があったというのになんという手抜き。
次に城下に行った時に必ず撮影してきます。スミマセンスミマセン…
さて毎度のことながら説明くさい所在地の紹介も済んだのでそろそろ本題に移りましょう。
法源寺の墓地空間は大きくわけて二つあり、一つは本堂前とその脇の南区墓地、もう一つは道路を挟んだ裏手の北区墓地で構成されている。
今回は後者の北区墓地を見ていきたい。
かなり雑多な配置で荒れた印象を受ける。
個人的な美意識ではこういった墓地のほうが好きなのだが、正直言って調査する時だけは勘弁してほしくなる。
どこまで回ったか、どこまでが確認済の墓なのかが時間が経つほど怪しくなるからだ。(墓石の上に線香とか置いたりして目印にすればいいんじゃない?)
これなんて「安永」の年号が。 西暦で言うとだいたい1780年ごろのもの。
地味に後ろの墓石がハジケている。
こちらはさらに時代は登って宝暦(1750年頃)。
笏谷石は風化しやすいというのによく300年近くも判読可能な文字を残しているものである。
ようやくここから家紋のお話。
『上がり藤に鷹の羽』
家紋自体はそれほど珍しくないが墓石が古めであり、側面に「三 安政六己未十二月十九日 俗名松林貞藏 行年三十五歳」と刻まれている。西暦に直すとだいたい1850年ごろのもの。
しかし上記の宝暦安永の墓を見てもらえばわかるように、松前町内ではこれでも中堅どころなのだ。
使用家は松林さん
『丸に三つ割り源氏車』
『三つ割り重ね源氏車』のほうが有名なようだが、これはただの三つ割り。
古い時代の家紋彫刻は概して「曖昧」なところが魅力。
使用家は伊藤さん
『菊輪に花菱』
風化が激しくかろうじて花菱であることが確認できる。
菊輪の外側にもう一つ輪があるように見えるが、戒名が刻まれている位置から判断してただの空目のようだ。
戒名しか読み取れなかったので使用家は不明。
『丸に頭合わせ三つ雁金』
道南では雁金が非常に珍しい家紋であり、こんなところで出会うとは思っていなかった。
東北や北陸とはまったく異なる地域出身の人物の墓なのかもしれない。
使用家は嶋田さんで、「萬延元庚申年六月」の碑文から1860年の建立であることがわかる。
『陰下がり藤』
通常の『下り藤』とは陽刻と陰刻の部分が真逆になっているので「陰」下がり藤。
こちらも古そうな墓だが戒名しか彫られていなかった。
『?』
…だんだん ('A`) や )谷( に見えてくゲフン。
真面目に考えると『並び三階菱』だろうか? 求ム情報。
造立時期は天保五(1834)年から安政三(1856)年の間。 使用家は戒名しか刻まれていないため不明だが、なんとその中央の戒名が「笑月院一震茂高居士」
案外AA説の可能性もありか? いや、ナイナイ。
『丸に陰三本杉』
陰の杉家紋を初めて確認。
余談だが杉家紋は根が脚に見えてとってもかわいいぞ。
使用家は例によって戒名のみの刻字により不明。
『丸に剣片喰』
おなじみの家紋。道南全体でその数は上の下あたりにランクされるだろうか。
この墓は北区墓域の中でも少し離れた場所にぽつんと建っていた。
新しい墓を建てるにも場所が確保できなかった苦肉の策だろうか。
使用家は清水さん。
『隅切角に菊菱』
菊菱に合わせるため隅切角も横長に。
和菓子っぽい?(落雁おいしいよね。すぐ飽きるけど)
例によって使用家は不明。
『丸に三つ盛り洲浜』
洲浜(すはま)は洲の入り組んだ砂浜を意匠化したもので、めでたい紋として扱われる。
なぜそんな浜がめでたいのかというと、中国には「蓬莱思想」なるものがあってそれによると東の海上には蓬莱という仙人が住む島があるのだそうだ。 不老長寿の象徴で、理想郷ともされた。
そんな蓬莱の景観を模したのがこの洲浜なので、おめでたいのだとのこと。
道南では少数派の家紋であり、その派生形ともなるときわめて稀。
実際現時点で上記のものしか派生形を確認できていない。
建立時期は安政二(1855)年から明治三(1870)年。 使用家は例によって不明である。
『丸に加賀梅鉢』
摩耗が激しい笏谷石製墓塔の見本みたいな例。
北海道は加賀、越前、能登からの移住者、居留者が多かったので梅鉢を使用する家が今尚多い。
使用家不明。
…犬!?
正確な年号こそ刻まれてなかったが、笏谷石製なので戦後より前のものである可能性が高い。
北区墓地の中でも西側中部には犬の墓が何基か並んでいた。
チャリか… 自転車?
『丸に中陰唐団扇』
団扇紋と一括りに言っても実際は
① 夏や酢飯を作るときに使うアレ
② 天狗が持ってる葉っぱみたいなやつ
③ 戦国武将が戦場で持ってる実用性皆無のおしゃれアイテム
の三種類があり、上は③の系統にあたるもの。
団扇家紋はだいたい②か③であり、団扇家紋自体そんなに数が多くないのに①ともなると正直いつ確認できるものか想像のつかないレベルの稀少種となっている。
使用家は不明だが、建立時期が天保と刻まれている。
『丸に左三つ巴』
陰に見えるが外枠の円まで陰刻になっているので、彫りこむ時に逆になったと推測できる。
まあよくあること。
使用家は例によって不明。
『丸に三つ石』
石畳紋の基本種。
四角い平石を地面に敷き詰めた形を意匠化したもので、これが連綿と続くと「市松」とか「元禄」とか言うようになる。(最初からそう言ったほうがわかりやすいぞ)
あ、基本種といっても、他に形状の似た釘抜き紋や菱、目結に比較するとかなり少ない部類なんだぞ。
使用家は不明だが、造立が万延元年と碑文からわかる。
…ヒエ
登って来た。
道の向こうに見える青い銅板屋根の建物が法源寺
『右二つ巴』
外枠になる丸がないのでただの二つ巴か、陰二つ巴かは不明。
ここでは仮に前者として扱う。
使用家は岩山さん。
『五つ鐶に左一つ巴』
寄木家紋だが珍しい取り合わせ。
五つ鐶の部分が巴に見えなくもない(実際そういう派生形がある)
使用家は川村さん。
番外編。 珍しい苗字。
「簏谷」
「はこたに」と読むらしい。
とまあこのように、松前町さんも遂に本気を出してきた模様。
他に江戸時代の墓がごろごろみられるところなんて北海道では江差と函館近在くらいなので、今のうち一々過剰に反応して楽しんでいこうと思う。
今回の立地場所です。
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