北海道でもやっと桜が咲く季節になった。
 …とは言っても道南では4月の末、日高山脈の手前までが5月の初め、稚内や根室では5月の第二週にもならなければ開花しないわけで、なんとも北海道の無駄な広さを思い知らされる。


 まあそれはおいとくとして、今日は桜の話である。

 日本人にとって桜はある種の特別な樹(花)と言われている。
 古くは田に稲を植える時期に咲くことから「穀物の神が宿る」と考えられ、農事始めの神事や暦にも利用された。またその花がすぐに散っていく様子から人生の儚さ、心の潔さを投影して、諸行無常のたとえにされた。
 近代になっても春を告げる花としてその開花期には各地で花見が賑わい、受験や卒業シーズンを演出するものとして欠かせない存在にもなっている。

 しかし、必ずしも皆が皆、桜によい感情を持っているわけではなかったという話が例によって菅江真澄の「えみしのさえき」に載っている。
 寛政元(1789)年5月24日の記録から、真澄が現せたな町大成地区にある太田権現へ向かう道中に、現上ノ国町のあたりを通りかかったときの話である。


 「…華徳山上国寺にむさしの国より来りける松逕上人のおはするをとらぶらへば、ねもごろに聞えいざなひ給ふ。
 この寺の砌にいと大なる桜咲たり。松逕の云、『この花咲初ては、はや鯡てふ魚の群来侍らじと人なげいて、かゝる桜のとからぬことを人ごとによろこび、咲たるころは浦人らねたうのみいひのゝしりて、さらに見侍る人もさぶらはじとほゝゑみてけり』」
(「…華徳山上国寺に、むさしの国から来た松逕上人がおられるのを訪れると、ねんごろに迎えてもてなしてくれた。
 この寺の かたわらに、たいそう大きな桜が咲いている。松逕の言うには『この花が咲きはじめると、もうにしんという魚が群れてこなくなるといって、人々は嘆く。だからこの桜の花が早く咲かないことを人はみな願い、咲いたころには浦の人たちはうらみののしって、いっこうに花見をする人もいない』と笑顔で語った」)


 当時の北海道はほとんどニシンによって経済が回っているといっても過言ではなく、ニシンがやってくる 4月から5月は沿岸の住民から出稼ぎにやって来た人々まで一年分の稼ぎを得るための正念場だった。 そんな活気にわく季節の終わりを告げる桜は当時の住民たちの憂さを晴らすスケープゴートにされていたようだ。 
 ちなみに、今でも上ノ国町上国寺のそばには大きな桜の木が生えている。
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 この樹が江戸時代から生えているかは定かでないが。


 さて、上の話には面白い続きがある。(長いので現代文のみにしたい)

 「…『二十三日 寺の主の上人が、「旅の疲れもあろう。きょうは休んで花見でもしたらどうですか』といってくれたのをうれしく思い、人々と物語をしてすごした。
 この寺の門を出ると神社がある。
 『何の神をまつるのですか』とたずねると、『にしん神です』と答えた。 『どのような神をあがめてそういうのですか』と、さらに問うと由来を教えてくれた。

 百年のむかし、大蔵法印秀海というたいそうな修験者が磯べに庵をむすんで、尊く修業をしておられた。
 ところがある年、特にニシンの群がまったく来ず、ひどい不漁に浦々の人すべてが嘆いているのを法印秀海が聞いて、「お前たちが切に願う心が本物であるなら、わたしは神に実情を訴え祈って、ニシンが獲れるようにしてやろう」と言った。
 浦の人たちはこのことを聞いて、『何を言うんですか。今は五月の半ばも過ぎたのです。ニシンの漁期であってこそ、来ることもありましょう。 ですが五十日あまりも日数が遅れては、いかにお祈りの法力がすぐれてあろうとも、その効があるとは思われません』と言う。
 法印秀海はほほえんで、『群来る時季にあってきたニシンならば、祈祷したせいだとはいわれない。 時ならぬときに祈ってこそ、まさしく神の効源というべきだ。 わたしのはいいかげんな祈願ではない。わたしの露のような命がここに消えてしまおうとも、大勢の人々をあわれと見給えと神に誓って祈ろう。あなた方も心をひとつにして、さあ天に祈ってくだされ。 もし、わたしが祈り得たならば、浦々の漁師たちのもとから、漁で得たニシンいくつかをわたしに与えて欲しい。それをもとでにして、寺の修理をしよう』と言った。
 浦々の人たちはそれを聞いて、『たいそうおやすいご用です。どのようにおっしゃろうとも、そのとおりいたしましょう』と約束をした。

 しかし世間には、つむじまがりの男がいるもので、その者がいうことには『今はいつだと思うんだ皆。五月の末だぞ。ニシンが群来るころから六十日あまりもすぎてしまってから、どうして腐れニシンひとつさえ来ることがあるのか。 なまぐさ山伏の空祈りに、私は少しの期待ももてない。 こんな祈りが何になろうか。 かたはら痛い験者殿だ』と大口を開けて大いにあざけり笑った。

 人々は『そんなことを言うな。天の恵み、神の力ははかり知れるものでない。 今年ニシンが群来てくれなければ、われわれは何を食べて命をつなぐんだ。 親や妻子の嘆きをどうするのか。 あんたも我々と一緒に祈りなさい』と諌めたが、どうにも従わず、この人は憎々しいことばかり言って人の悪(アラ)となった。

 大蔵法印は、まず心身を清め慎んでから注連を七重に引きまわし、五つ品の幣をたてて、数珠の音もたかく鈴の音も尊く、食を絶って夜昼となく祈った。
 それから数日、まだ七日に満たないうちに「しかべ(アホウドリ)」という鳥が沖に集まり、カモメは海いっぱいに群がり、鯨は大波をおこして汐を吹きあげ餌をあさった。
 これは全てニシンの群が来た証拠だった。
 こうして海の上は白みわたり、浦という浦にニシンが群がって来ないところはなく、例年よりも多くのニシンを網あげすることができた。
 『ああ、ありがたい祈りだ。大蔵法印はそもそも神であろうか仏であろうか。このような尊い験をみせてくださったとは』と大勢の人が集まり歓びあう声は、潮のわくように鳴りひびいて聞こえた。

 あの心のねじれた人も、ニシンをたくさんとったが、お礼としてわずかのニシンも法印におくらなかったので人々はそれを見てあきれたり、そしったりした。
 『どうしてお礼をはやくさしあげないのか。御祈りのおそろしいほどの効験をみたのにどうしてものをおくらないですまされようか。はやくしなさい』と涙をながしてひたすらすすめるのに、かの意地の悪い人は『この年は季節が遅れて海がまだその漁期に当たっていたので、自然とニシンが群来たまでで、それをなまぐさ山伏のなま祈りの効験と思ったらとんでもないことだ。だからわたしはこのお礼をするいわれは露ばかりもないのだ』と言った。

 法印が彼の自分勝手な言い分を聞くやいなや言い争いとなったが、 しかし、意地の悪い人は少しも言いやまなかった。
 浦人たちはどうかして法印のもとへニシンをはやく贈ってあげるように、いろいろとりなしたが、ようやく何匹かの魚をおくらせたので、法印の心もすこしは和やかになった。

 ところが、意地の悪い人はあくまでも『あいつのようなろくでなしはその数さえかぞえられるか疑わしい』などとごねるので、法印に数えさせようと、あれこれという。
 『それ思ったとおり。ろくに数もわからないのだ』と言い出して、ふたたびいさかいが起こり、この法印を腹黒いものとするためにたいそう質の悪いニシンをひろい集めて、三つ四つ数のたらないままで束にして贈ったのでこれがまたいさかいのたねとなった。
 法印はますます立腹し、前にして大きな争いとなったのを人々がとめようとしてもききいれず、ついにはおふこ(天秤棒)をふりあげて、激しく争ううちにうちどころが悪かったのであろう、老法師は息苦しくなって倒れふしたまま亡くなってしまった。
 人々は騒いで介抱したが、どうすることもできなかった。

 それから三日四日あって、この心のねじれた人も突然病気になって死んだ。
 そしてその後いくにちもなく、その妻子たちもみな次つぎに死に絶えてしまった。

 そのような怨みの報いを目の前にみた人々は、身の毛もよだつ恐ろしさに法印の御霊を若宮としてまつって、これを「にしん神」と申すのである。
 また、心がねじれた人の亡き霊が生前おかした罪を償ってささげるのだろうか。秀海の庵のあった跡に、いつも正月のころには必ずニシンを二、三匹波でうちあげる。 これを「大蔵ニシン」といって、領主に奉っていたが、ここ十年来そのニシンも波が寄せないためかあがらず、群来てくるニシンもよってくることがなくなった。」

 

 仏教説話も地域密着型の時代だった。


参考文献
・菅江真澄 (内田武志、宮本常一/編) 『菅江真澄遊覧記 (2) 』 平凡社 2000年
・佐々木馨 『北海道の宗教と信仰』 山川出版社 2009年