北海道八雲町の野田追(のだおい)川上流地域には典型的な丘陵開拓地がいくつか存在し、左岸地域は蕨野、右岸地域を赤笹や桜野と言って、昔は林業が、今は酪農業が発達した地域として現在まで存続している。
この二つの土地にはそれぞれ蕨野小学校と赤笹小学校があったが、いずれも児童数の減少によって平成に入って間もなく閉校されており、学校開設の発端も閉校への経過も非常に似ている。
今回はその一方、赤笹小学校を取り上げる。
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赤笹小学校が開校したのは大正2(1913)年のことで、ほかの学校に比べると割りと遅めの時期だった。
明治末期にはそれまで未開地とされてきた山林沢辺にも人の手が入り込み、北海道の開拓事業も佳境に入りつつあった。野田追川右岸の新興集落だった大木平でも、それよりさらに奥地の赤笹へと移住者が増えていき、しだいに移住者子弟の通学に不便を生じさせるようになった。なにしろ、一番近い学校でも大木平の大柏野簡易教育所附属大柏野特別教授場(無駄に長い)で、寂しい獣道同然の道を毎日子供たちに通わせるのは当時であっても非常に酷であったのだ。
そんな中、大正2年1月24日に大柏野特別教授場が火災によって焼失したことにより事態が動き始めた。
赤笹集落にほど近いガロー沢下一帯の開拓者集団のリーダー:服部伝次が大柏野特別教授場の再建について「これから当地区では2、30戸の入植を新たに計画しており、周辺にも移住者がさらに増えるだろうから、学校再建の際は児童通学の便を考えて、少しでも奥地に移転してほしい」と嘆願したのだ。
当然、大木平の住民は現状維持を望み、次第に赤笹集落方面の住民と大木平周辺の住民の間には紛議が起こった。
これに対して村役場では事態の収束にあたり、「大柏野特別教授場の本校である野田追尋常小学校へ通うことになってもその道のりは4キロ前後であり、他校の通学区域児童と比較しても大差がないので、奥地の意見に重点を置く」と結論づけて、学校を現在の赤笹集落に移転することを決定した。
赤笹周辺の住民は大変喜び、学校用地として100坪を選んで15.5坪の校舎を建てて体制を整えた。こうして大柏野特別教授場は赤笹へと移転し、大正2年4月1日に名前を「野田追尋常小学校附属赤笹特別教授場」と変えたのであった。
登校途中の赤笹小学校児童 大正
大正年間の赤笹小学校児童たち。登校途中の様子。
 
大正9(1920)年には赤笹小学校となり児童数42名を数えたが、主に炭焼を生業としていた移住者たちも用材の減少やエネルギー源の変化とともにしだいに戸数が減少していき、昭和24(1949)年には現在残る校舎に建て替えらたが、児童数の減少は歯止めがかからなかった。
赤笹小学校児童たち 昭和17年
昭和17(1942)年の赤笹小学校児童たち。

昭和50年以降は全校児童数が一桁台に落ち込み、昭和63(1988)年にはついにたったの1人のみとなってしまった。
平成元(1989)年には町から地域住民に大して、今後も児童数増加が望めないことから学校統廃合をしたいと協議を始めたが、学校開設に苦労を伴った地域住民にとって廃校は認めがたく協議は難航し、結局、平成2年4月をもっての統廃合が決定。赤笹小学校は83年間の歴史に幕を下ろした。
残された後者はしばらくある民間人によって西陣絵の工房として使用されていたそうだが、現在は放置状態となっている。

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最初にこの物件を発見したのは蕨野小学校を訪問したのと同じ日だった。しかし、玄関までしばらくの距離があって、しかも柔らかい雪が厚く降り積もっており、潜入は困難を極めたので、堅雪になりそうな日を狙って後日訪問することにした。
判断は功を奏し、一ヶ月後の訪問時は固く締まった雪の上をすいすい歩けて非常に快適だった。

冬のぐずついた曇天もたまにはいい。
教員住宅もそのまままるまる残されている。
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先生たちも不便なことだったろうな。

校門らしきもの。
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かつてはこのくぼみに寄贈者か表札がはまっていたのだろうか。
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錆びついた遊具類
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冬は雪に埋まり、それ以外の季節は草に覆われ…

資材倉庫?
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道民としてこういう景色を見ると、明日は我が身とさえ思ってしまう。

ガッチガチに固まった雪の上をがりがり進むと校舎正面が見えて来る。
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かつてはこんなだったらしいが…
赤笹小学校(新)
樹が大分大きく育っている。 

正面玄関上の校章。
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六つ笹の葉に赤文字。(家紋みたいに言うな)

玄関内部。
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木造校舎の中ではわりと近代的。 

玄関からすぐにT字型に廊下が分かれ、教室と職員室に大別される。
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八雲町の教育目標
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八雲は明治時代に尾張徳川家が入植した土地だ。
その影響で周辺市町村と比べて昔も今も文化水準が高めなのだ。

児童作品か。
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この頃はまだ在校生が数名いたようだ。

冬特有の雪の照り返しで白くまぶしい室内。
北国の人間には非常に懐かしい感じがする。
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まずは職員室から見ていく。
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最近まで管理されていただけあって、ほとんど荒れた様子はない。

以前の使用者が職人だったからか、なんとなく雰囲気が図工室風だった。
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何故に「脈」
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歴代児童数。最後の数年間が…
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最後の在校生は独りぼっちの小学校生活を一体どんな気持ちで過ごしていたのだろう。
ちなみに、川を挟んで向かいの蕨野小学校も廃校直前期は在校生がたった一人であり、そのため遠足や学芸会などの学校行事は蕨野・赤笹の合同で執り行っていたらしい。
経緯といい、位置といい、まるで兄弟のようだ。

謎の組み合わせな残留物たち。
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廊下といえば、こんな画が撮りたくなる。
実に単純。

水飲み場。
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蛇口が一つしかないが… 一つで充分であったことだろう。

教室へ移る。
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元は二つの別の教室だったようだが、今では繋がって一つの大部屋となっていた。
やたら広い。それはもう、小さい学校でいう「体育室」のように…。 小規模中の小規模校になると、体育館なんて大仰なものは無用の長物でそれこそ「室」で充分なのだ。 

クラス分けが出来た頃は、こちらを「笹組」、上の正面に見える教室を「桜組」と言っていたらしい。
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厳しい寒さは結露した水分を凍らせて、窓に雪の花を咲かせる。
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雪国に住んでいる方ならおわかりだと思うが、これだけ雪が降り積もると雪が周りの音を吸い込んで、建物の内部では無音状態ができあがる。
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暫くその場に立っていると、耳にキーンというような高い響きが襲う。
それくらいの静寂が場を支配している。

北国の冬は「死」そのものだ。
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窓ガラスから、開拓酪農家を撮る。

そんな「冬」に咲く花。
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廃校に来るたび窓の写真ばっかり撮っている気がする。
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年輪
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この板に傷を付けた人がいて、それを本人でさえもう覚えていないかもしれないのに傷はずっと残るんだな。

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最後に。
この物件がなぜ「もう一つの」独りぼっちの小学校かというと、先に訪問したのも先にまとめたのも蕨野小学校で、あっちのサブタイを『独りぼっちの小学校』にしたため。
え?そんな記事ないぞって? …同人誌に組み込んだんです。いや、ちゃんとこっちにもあげるつもりですから、そこは安心してください。

【参考文献】
・田仲孝一/編 『八雲町史』 八雲町役場 1957年
・八雲町史編纂委員会/編 『改訂 八雲町史』 八雲町役場 1984年
・同 『三訂 八雲町史』 八雲町役場 2013年
・八雲町役場総務課/編 『八雲町百年のあゆみ』 八雲町役場 1979年