長万部町国縫の市街地へ入ると、家屋の向こうに大きな煙突が立っているのが見える。
周辺を走る三つの主要道路、国道5号、230号、そして道央道のすべてから臨むことができるその姿と色は明らかに廃墟のものだった。
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近づいてみる。
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近辺に工場らしい建物があるが、新しいもので事実無関係だった。

避雷針も鉄はしごもきちんと残っている。
わりと新しいものなのかもしれない。
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根元にはタンクのようなものが放置されていた。
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夕暮れの野原の真ん中にぼつねんと立つ煙突は不気味でさえある。
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京都タワーを髣髴とさせる基部。
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他に残るものもなく、一体なんの煙突なのか気になったので調べてみたところ、これはかつて道内ではそこそこ有名だった合板メーカー、北晴合板国縫工場の残骸であることがわかった。
さらに調べを進めるうち、つい最近までこの近辺にはもう一本の煙突が立っていたことも判明した。

一本は戦時中にある砂鉄会社が鉄を製錬するため工場を建設しようとしたが、諸々の理由で操業には至らずそのまま放置されたもので、もう一本が上記の北晴合板株式会社国縫工場のものだった。
この工場は昭和9(1934)年に北海ベニヤ株式会社国縫工場として創設され、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年からは航空単板協力工場に指定されていた。(当時、陸軍はアルミの欠乏による航空機不足解消のため、江別市内で木製戦闘機キ106を試作しており、道内各地の木工場に協力を要請していた)
昭和20(1945)年以降は合板製作を一旦やめ、同25(1950)年から国縫ベニヤ株式会社として独立、34(1959)年に社名を笠間木材株式会社国縫工場に改めたが営業不振が続き、37(1962)年から最終的に北晴合板株式会社国縫工場となった。
↓昭和28(1958)年頃の工場。
昭和28年頃の国縫ベニヤ工場
昭和46(1971)年4月にタバコの不始末が原因で失火、工場は全焼したが、7月には再建された。
昭和56(1981)年に北晴合板が倒産して工場は解体されたが、煙突はそのまま残されたというわけである。
その後、二つの煙突は仲良く放置され続けたが、平成10年ごろに道央道の建設用地として砂鉄業者の煙突がかかることになり取り壊され、現在の一本が残る状態になったのだという。


【参考文献】
・北海道新聞社 『北海道新聞 夕刊 1981年11月30日』 北海道新聞社 1981年
長万部町史編集室/編 『長万部町史』 長万部町 1977年
・田中和夫/著 『幻の木製戦闘機キ106』 北海道新聞社 2008年
【協力】
・長万部町教育委員会様