八雲町野田追川上流に木造の小学校が残されている。
「蕨野小学校」 開拓集落に置かれた小規模校の遺構だ。
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八雲町は明治時代に尾張徳川家の者が多数入植した土地で子弟教育への関心も当時から高く、山奥の沢辺に開かれた集落一つ一つにまで分教場や分校が置かれていった。この蕨野小学校もそんな僻地校の一つだった。
詳しい地理や経緯は前回の記事(赤笹小学校 ‐もう一つの独りぼっちの小学校‐ http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51872672.html)も参照にしてほしいが、 蕨野地区は野田追川上流右岸の丘陵地で明治25(1892)年に長谷川円右衛門などの愛知県出身者らが一帯の払い下げを受けて農地開拓が始まった。戦前まで農業と林業、炭焼きが盛んだったが、それ以降は酪農が主な産業となっている。

明治の入植当時、周辺は落部尋常小学校野田追分校の通学区とされていたが、その距離は遠く、未開地同然の道を子供たちに通わせるのは危険だということで、住民が集落内に私塾を開設して寺子屋式の授業を行った。これが明治34(1901)年に落部尋常小学校の分教場として認可されたのが蕨野小学校の始まりだった。
その後、大正6(1917)年に蕨野尋常小学校として独立。在校生の数も約70名に達しており、昭和10(1935)年頃までは約90人までに増加した。
戦後は僻地校の特性を利用して児童に鶏を飼育させて卵を売り、その収益を修学旅行の費用に充てたり、自給自足による完全給食を行うなど独自の教育活動が行われていたが、昭和30年代をピークに児童数減少の一途をたどり、昭和56(1981)年からは在校児童数はたったの1名になってしまう。当時は校長1人に教諭が1人の極小運営体制が布かれ、修学旅行や学芸会などの学校行事は前記事の赤笹小学校と合同で行っていたという。
結局、昭和63(1988)年には今後も生徒児童数の増加は見込めないため、町と住民の間で閉校協議が始まり、平成3(1991)年に統廃合が決定。
蕨野小学校はちょうど開校90年の節目の年に幕を下ろしたのだった。
 
その後、校舎は希望した民間人に貸し出され、羊の飼育や羊毛製品の販売に15年間利用されたそうだが、平成18(2006)年からは店子がいない状態が続いている。

冬晴れの穏やかな日の訪問になった。
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正面玄関は厚い雪に埋まってどうにもならなさそうだったので、横の勝手口から入る。
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水飲み場らしい。

横にトイレが併設されている。
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町指定のゴミ袋に不燃ごみが詰め込まれているのが散らばっていたり、生活雑貨が入った段ボールが横に積まれていたりする。なんだか学校らしくないが、元の利用者の置き土産らしい。

そのまま進むとちゃんと廃校らしくなってくる。
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この木造校舎は昭和38(1963)年の新築。総工費は当時のお金で370万円ほど。

雪国出身の私には懐かしい感じのする景色。
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まさしく「冬」だ。

教室は二つしかなく、他に部屋が一つに職員室、それとトイレと水飲み場だけという実に小さい学校だった。
しかし、最後に残った在校生1名にとってはあまりにも広い学び舎だったことだろう。

こちらの教室には元の住人が使っていたらしいベッドが残されていた。
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この部屋は日あたりが悪く、湿気も籠って天井が落ちたり床が剥げたりで最も痛みが激しかった。
夏に来たら物凄く肺に悪そうな場所だ。

窓の外は校庭
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一度転用されただけあって、黒板に記念の落書きや最後の予定表などは一切書き残されていなかった。
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これも元の住人の持ち物だろうか。学校のストーブらしくはない。
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元は図書室?
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なぜかドライフラワーが乾燥状態で放置されたまま。
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元住人の趣味かも。

家具までそのままとはちょっと持ったない気がする。
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最奥は元職員室。
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神輿? 神棚かも知れない。
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冬晴れの一日はなんだか得したような気分になる。
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奥にサイロが見えるように、この集落でいまなお酪農を続けている家族もいる。
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木造の建物と、かすかに漂う牛舎の匂い。全体的にどこかカントリー調な雰囲気が漂う。

一応現在も入居者を募集しているそうだが、果たして次はあるのだろうか。
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ドライフラワー(天然物)
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夏にまた来たい。マスクでもつけて。
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