厚沢部町須賀地区は館地区最奥の場所にあたり、かつては「鷲ノ巣」と呼ばれていた。
 館地区と同じく幕末、特に慶応年間(1865~1868年)からは松前藩が農地開墾を本格化させ、明治時代になるとその関係で開拓使による屯田兵用地として民間貸下封鎖がされたが、明治10年代になると開拓の本場は石狩以北の道央道東へと移っていき、屯田兵を置くべくもないとして貸下が許可された。
 そこに入植したのが山田致人(やまだむねひと)と二木小児郎(ふたつぎしょうじろう)だった。明治時代以降、館村 はこの二人の尽力によって発展していく。
 今回訪れた須賀地区の墓地は彼ら二人が眠る場所である。
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 山田致人は弘化3年(1846)生、伊予国新谷藩出身の士族だ。
山田致人
 元治慶応の頃、京都へ上り鳥取藩士で後の第四代北海道庁長官北垣国道、土佐藩士の河野利鎌らと知り合い岩倉具視の下に出入りするようになった。新谷藩は尊攘派に属しており、山田が京都へ向かったのは藩命によって五条少納言らと倒幕関係のやりとりをするためだった。新谷藩は五条少納言と懇意になり、鳥羽伏見の戦いでは、錦旗奉行に命じられた彼の護衛として山田も出陣した。 
 明治2(1869)年に致人は弾正台(今の警察のような機関)に任用されたが、わずか2年で弾正台は廃止になり、その後は開拓使に出仕することになった。何度か退官出仕を繰り返しながらも、明治8年には七重官園勤務になった。七重官園は現在の七飯町に置かれていた西洋農業試験場で、殖産・牧畜・林産・養蚕またそれらにかかわる知識や技術、道具の普及生産などを目的とした施設だった。ここでの経験が元になって致人は北海道開拓の意をかためたという。
 明治11(1878)年、致人は大野村(現在の北斗市旧大野町)に移り牧場の経営に乗り出した。これは渡島地方における民間経営牧場のさきがけになり、見学者がよく訪れた。その中には後に帯広市周辺へ入植開墾する開拓功労者:依田勉三もいた。
 この頃、函館教会堂にやってきたイギリス人師司:デニングの伝道集会に参加して感激し、キリスト教の洗礼を受けた。明治15年には帰国するデニングに伴って洋行し、翌年に帰国した。
 山田はさらなる開拓耕地の拡大を目指したが、大野村周辺は既に大規模な土地の払下げが受けられるような場所はなく、茅部方面にも適地はなかった。そこで目を付けたのが厚沢部方面へ山を越えた先の館村だった。
 山田らは同志12戸をあつめて333haの土地を借り受け、明治17年に入植を開始した。一時は仲間の病気や土地を離れる者が多く出て計画は滞っていたが途中で二木小児童郎の入植もあって、開墾は着々と進んで行った。
 明治33(1900)年、山田は伊達村民たっての希望で初代村長として着任することになった。
 開拓使勤務のころ、伊達村に入植したばかりの人々約1000名は慣れない農業と寒冷な気候の前に飢餓に襲われていたのだが、これの救済措置にあったのが他でもない山田であったのだ。明治33年に一級村として発足した伊達村会議員らと村民はこの恩に報いる形で山田を村長として選任したのだった。
 しかし、着任して間もなく激務がたたって持病の肺病が再発し、翌年には退官せざるを得なくなった。
 無念のまま館村に戻った山田を待っていたのは更なる悲劇だった。長男の道太が放蕩に耽るようになっていたのだ。道太は医者を目指していたが山田と同じく肺病で健康を害して帰郷せざるを得なくなり、村中に借り受けた土地で耕作しながら静養を続ける生活を続けていた。夢破れたまま生きる中で弟と妹が結婚していきだんだん彼は心を病んでいき、父が伊達村着任を受けて家を留守にするとついにタガがはずれてしまったのだ。
 明治35年には道太が家の銀行預金に手を出して親子喧嘩になり、完全に心をすり減らした山田はついにたえかねて、自宅裏で自ら刃を立ててその生涯を閉じた。57歳であった。
 熱心なキリスト教信者で、また伝道者でもあった彼の終焉は自殺によるものであり、神意に背くとして司祭も受けられないまま家族葬も同然で葬られたという。 
 しかし、翌月に彼の死を聴き付けた榎本武揚から手紙が届いた。生前から山田と榎本は親交があり、わざわざ自分の筆蹟を刻んだ墓石を横浜から送り届けたのだ。三角形のその墓碑は今も須賀地区墓地の中ほどに立っている。
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 一方、二木小児郎は嘉永6年(1853)生まれ、薩摩国出身の士族だった。
昭和3年9月2日 二木小児郎
 16歳の時、戊辰戦争で越後に上陸し庄内藩兵と交戦した後、東京から帰郷。明治10(1877)年には西南戦争が起こり、郷党として参戦した。その後、鹿児島県会議員をつとめ、明治19(1886)年には京都の同志社で新島襄の教鞭を受けたのち、北海道開拓を決意して函館へ渡った。
 二木は入植適地を探す中でかつての友人に再開し、厚沢部の館村で山田致人や鳶川という者たちが入植したが土地は肥沃ながら不運が続いてなかなか成果を挙げないでいる話を聞き、二人を訪ねてみることを決めた。
 彼は山田、鳶川らの歓待を受け、館村内の視察を行った。山田も鳶川も二木も南国育ちのキリスト教洗礼者であることも手伝って馬があい、開拓や将来の展望をあつく語り合った。その中でさらに奥地の視察を勧められたので、厚沢部江差方面で出向いた後、札幌方面へ旅立ち、苫小牧や千歳、札幌近郊の開拓地を50日間見て歩いた後同年7月には館村へ戻った。
 札幌で二木は当時の北海道庁長官永山武四郎と懇談し、移住候補地を決めたかと問われた際「館村に入植したいが屯田兵用予定地として貸下封鎖されているのでできない」と答えたところ、「今は既に開拓が奥地へと進められており、もう道南では屯田兵を置く必要性はないと考えられるので出願すれば貸下許可が下りるであろう」という話を得た。
 二木は大変喜び、館村移住を決意した。明治21(1888)年10月10日、国有未開地無償貸下許可が下り、以降周辺に入植していた人々と協力しながら森林の伐採、開墾をすすめて行った。
 二木や山田らは開拓だけではなく、地域に出張診療所を設けたり、館小学校の創立のため資金を寄付するなど地域振興にも尽力した。そのため昭和9(1934)年には二木小児郎翁開拓記念碑が集落住民の総力で建立された。記念碑は普通その人が亡くなってから作られるものだが、それだけ住民の尊敬を得ていたという事だろう。
二木小児郎 碑
 開拓記念碑の前で孫と夫人の3人で記念撮影をする小児郎。 
 昭和14(1939)年、二木は87歳で永眠した。キリスト教者ではあったが戦時という時勢を鑑みて、神道式の葬儀を行った。
 そのためか、墓碑は仏式の四角柱型で、戒名は神式というよくわからないことになっている。
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 ちなみに小児郎の子孫は今でも富里に住んでおり、鷲ノ巣神社の近くにはその家が残っている。
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 手前に記念碑がある。

 さてすっかりお墓<<<集落の紹介になってしまっている気がするけど、やっていきます。
 須賀地区の墓地家紋調査です。
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 この十字架型の墓は二木と山田の同志であった鳶川耕三郎の墓。嘉永3(1850)年生まれ。
 伊予国出身の士族であり、函館聖公会青年会で活動していたキリスト教洗礼者であった。彼は明治43(1910)年に61歳でこの世を去ったが、3人の中では唯一己の信仰する宗教の形で葬ってもらったことになる。幸福なり。

・丸に六つ丁子
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 檜山と函館近辺ではたまに見かける家紋。
 そして、そのすべてが二木さんの関係者だったりする。 もちろん、二木小児郎もこの家紋。

・十六菊に桔梗
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 十六裏菊や旧梨本宮家の菊花紋に似ているが違う。
 菊の花の中に別の花の意匠を入れた珍しい寄木家紋。
 使用家は松橋さん。