「分遣瀬」 「初無敵」 「冬窓床」
 これを何と読むか、わかるだろうか。

 正解は「わかちゃらせ」 「そんてき」 「ぶいま」
 
 読めと言う方が無茶なレベルの狂おしい難読地名であるが、これらはすべて北海道釧路市から釧路町、厚岸町にかけての海岸地帯に集中しており、上にあげた他にも漢字三文字の難読地名が大量に配置されている。
↓釧路町難読地名地帯付近の地図


 北海道の地名が難読であることは有名だが、ここまで酷いものが一地方にかたまってあるのはなかなか珍しい。ざっと並べるだけでも
・分遣瀬(わかちゃらせ)
・臥玆足(ふしこたん)
・別舎無(べっしゃむ)
・又飯時(またいとき)
・地嵐別(ちゃらしべつ)
・嬰寄別(あっちょろべつ)
・舳堤辺(えとろんべ)
・十町瀬(とまちせ)
・跡永賀(あとえが)
・冬窓床(ぶいま)
・仙鳳趾(せんぽうし)
 と、まるで中学生の書いた痛ノートのような字面が並んでいる。

 これらの地名は本来アイヌ語であり、漢字はその音を借りた(この場合借りたことになってないものばかりだが)にすぎない。であれば必ずいつかの時代、漢字に直した人物がいるはずなのだが、いかんせんインパクトが強すぎるためか読み方ばかり取り上げられ、その出典がどこで誰が決めたのかは書かれていない。
 北海道でも類い稀な極悪難読地名地帯を作った者は一体誰なのか。今回はそれを探ってみようという趣向である。

 道東、釧路方面へ和人が入り込み始めた時代はだいたい1600年代中ほどで、当時は松前藩(と請負商人)がアイヌの人々を使役して場所(交易や漁撈を行うところ)経営を行っていた。
 18世紀になると蝦夷地沿岸部にロシアが接近しはじめたが、松前藩にこれを警備するだけの能力はなく、危機感を覚えた江戸幕府は蝦夷地を直轄地とする。これにより、蝦夷地東岸の本格的な調査・入植が進み始め、近藤重蔵、最上徳内らの北方探検家が活躍することになる。
 幕末には北海道の名付け親・松浦武四郎による調査と記録も行われ、幕府役人や諸藩の調査員も頻繁に出入りするようになった。
 では、犯人は彼らだろうか。
 
 ところが、この予想はすぐに違うことがわかった。
 松浦武四郎の『初航蝦夷日誌』では、上に出て来る地名は全てカタカナで表記されている。
 それどころか、他の地誌や史料の中でも「昆布森」や「又飯時」など当時から人がたくさんいた集落の一部を除いて、ほぼ全ての地名は平仮名か片仮名で書かれている。

 江戸期の当地の地名が現れる史料名と、主な釧路町管内三文字地名の記載方法を表にすると、以下のようになる。
無題そんてき1

無題そんてき2
 どうやら、漢字が主に使われるようになったのは明治以降のようだ。
 
 明治時代、この地域には釧路村、桂恋村、昆布森村、仙鳳趾村、跡永賀村などがあり、それらが合併を繰り返して釧路町となった。しかし、明治5(1872)年の成立時でも仙鳳趾村は漢字ではなく「センポウジ村」が正式名称となっていた。「仙鳳趾村」と漢字になったのは明治8(1875)年。他の村々も同じであった。 
 では、いつ漢字が導入されたのか。釧路市史と釧路町史を読むとその答えらしいものを確認できた。
 明治3(1870)年に現在の釧路町字昆布森へ入植した加茂家が、周辺の入植状況と漁場を記録した『加茂家干場関係台帳』(明治9年)に「誉散別」 「浦雲泊」 「弁尺泊」など例の目が回る漢字表記が並んでいるのだ。
 さらに、釧路市史の『開拓使事業報告(明治3年とあるが、実際に編纂刊行されたのは明治18年)』を読むと、これらに加えてさらにいくつかの難読地名が並んでいる。
 また、それ以降の史料をあたると明治22年の『御子柴家文書』では「仙鳳趾村」を除いてすべてカタカナ、明治30年の5万分の1地図には「老者舞」が「オエサマブ」になっていたり、明治33年の『北海道殖民状況報文』ではすべての地名が漢字ではなくカタカナ表記になっている。
 つまり、これらの地名を漢字にしたのは加茂家とそこへ入植した漁民たちということになる。明治の行政黎明期の頃は村の地名、または字番地番の決め方がかなり曖昧かつ適当で、地元民が勝手に宛てた地名がそのまま登記や役場で使われるという事が多々あったのだ。(このため小字は際限なく増えていき、各市町村ではたびたび地番改正を行ってその整理をしてきた)
 
 加茂家は新潟県岩船郡温出村から、釧路一帯の盟主的存在だった佐野家の招きで明治3年に昆布森村へ入植し、佐野孫右衛門を支える有力な漁家として重要な地位にあった。
 『加茂家干場関係台帳』が書かれた明治9年は加茂弥惣右衛門が家長であったので、この史料も彼によって書かれたと思われる。

 もちろん、これは現在自分が当たれるだけの史料をもとの結論なので、明治5年や8年の村成立時に作られた住所や番地表記がカタカナではなく、すでに漢字にあてられていたなんてことも十分に考えられる。北海道では地名の由来の研究は盛んだが、地名が決められたシステムやその登録の経緯などはあまり研究が進んでいない分野なので、なかなかはっきりしたことが言えないのが哀しいところだ。
 また、今でこそこれらの難読三文字漢字が連続しているのは釧路町沿岸部だが、昔はさらに領域が広かったらしい。範囲を釧路市内(明治時代の釧路郡の範囲)まで広げれば、「大楽毛」 「浦離舞」 「苧田糸」 「別途前」などが並び、さらに釧路町の内陸部にも「達古武」 「雪裡太」 「双河辺」という、同じ匂いのする地名があるのだ。
 もしかすると、漁民たちはあくまでパトロンであり、真犯人は当時の釧路郡役所にいる可能性が高いような気がする…
 いづれ、そのへんのことは北海道立文書館に通いつめれば明らかにできるだろう。おって、調査を重ねたい。

 以下、『加茂家干場関係台帳』とそれ以降の史料に記載された地名一覧
無題ソンテキ4
 …うーん、何度見てもひどい。
 特に「誉惑解」 「龍双霊」 あたりには白目が止まらない。
 これらは現在、読み方すら不明になっている。 読み方が分かる方、または関連する史料をお持ちの方には是非とも情報をいただきたいところだ…

 2016/11/10追記)
 おかげさまで、これらについてもおそらくこれであろうという読み方が煮詰まって来たので、時間がある時に大きく追稿つけます。

 


 また少し長くなったが、今回は最後にこの一言で締めたいと思う。
 これ 道南と全然関係ないじゃん!!!

↓参考資料
・釧路市/編 『新釧路市史 第二巻』  昭和48年
・釧路市/編 『新釧路市史 第四巻 史料編』  昭和49年
・釧路町史編纂委員会/編 『釧路町史』 釧路町 平成2年
・「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 『角川日本地名大辞典1 北海道 上巻』 角川書店 昭和62年
・「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 『角川日本地名大辞典2 北海道 下巻』 角川書店 昭和62年
・平凡社/編 『日本歴史地名大系1 北海道の地名』 平成15年
・山田秀三/著 『北海道の地名』 北海道新聞社 昭和59年 
・新井田孫三郎/著 『寛政蝦夷乱取調日記』 寛政元年
・最上徳内/著 『東蝦夷道中記』 寛政3年
・串原正峰/著 『夷諺俗話{蝦夷俗話}』 寛政5年
・高橋壮四郎ほか/編 『蝦夷巡覧筆記』 寛政9年
・渋江長伯/著 『東游奇勝』 寛政11年
・木村謙次/著 蝦夷日記 寛政11年
・谷元旦/著 『蝦夷紀行』 寛政11年
・藤知文/著 『蝦夷の島踏』 享和元年
・羽太正養/著 『休明光記』 文化4年
・児山紀成/著 『蝦夷日記』 文化5年
・松前奉行所/編 『東蝦夷地各場所様子大概書』 文化5~8年
・荒井保恵/著 『東行漫筆』 文化6年
・文道/著 『日鑑記』 文政12年
・松前藩/編纂 『天保郷帳{松前嶋郷帳}』 天保5年
・松浦武四郎/著 『初航蝦夷日誌』 弘化2年
・松浦武四郎/著 『竹四郎廻浦日記』 安政3年
・阿部喜任/纂述 松浦武四郎/校訂 『蝦夷行程記』 安政3年
・窪田子蔵/著 『協和私役』 安政3年
・石川和助/著 『観国録』 安政3~4年
・島義勇/著 『入北記』 安政4年
・青木常之助 成石修/共著 『東徼私筆』 安政4年
・森春成 高井英一/共著 『罕有日記』 安政4年
・松浦武四郎/著 『東西蝦夷場所境取調書上』 安政5年頃
・松浦武四郎/著 『東蝦夷日誌』 文久3~5年 

 そして、史料提供をしてくださった釧路町役場の鈴木様に感謝申し上げます。