檜山支庁の中で、ほぼ中央に位置する乙部(おとべ)町。由来はアイヌ語の「ヲトォウンベ(沼のあるところ)」とされる(『地名考幷里程記』)

 乙部の名がよくあがる歴史的トピックスといえば、明治2(1869)年に新政府軍が旧幕府軍占領中の蝦夷地へ上陸した場所であるということだろうか。
 古い文献では『津軽一統志』に「おとへ 是迄二里 狄おとな[アイヌの首長的存在のこと]見候内 家五十軒程」「乙部村 川有 しやも[和人のこと]狄共入交り…」、福山秘府の中に寛永10(1633)年の幕府巡見使一行が船で「ヲトベ 瀬茂内」を視察して引き返した記述がある。
 『津軽一統志』の記述にもあるように、乙部は和人地と蝦夷地の境界付近であり、比較的近代までアイヌ人と和人が雑居していた。『東遊雑記』には「幕府の巡見使は乙部まで来ると、出迎えのアイヌから鶴の舞や弓矢で的を射る儀式を見て引き返す慣例である」という話がある。だが、天然痘や麻疹の流行で、アイヌ人は宝永7(1710)年くらいまでにほぼ死に絶えてしまったそうである。

 また、この付近は火山活動や地震の影響で大きな津波を何度か受けており、菅江真澄は『えみしのさえき』の中で、「乙部の津鼻」に逗留中地震に遭遇し、津波が押し寄せてほとんどの人家が失われ、犠牲者も多かったことを記録している。江差や松前のような直接的記述は見られないが、寛保の大津波でも被害が出たものと思われる。
 地形自体は、日本海側によく見られる断崖絶壁と川による平野、奇岩が連続する海岸線の町であり、現在の主幹産業は漁業と農業である。

 余談だが、廃墟趣味のために岩手県宮古市の旧田老町を訪ねた際、山道の入口手前に「田老町乙部」という標記が入った陸橋を発見した。
 東北地方でもアイヌ語由来の地名はたくさんあるので、気になって調べたところ、こちらはアイヌ語の「オトプ(ミズゴケ)が沢山あるところ」が由来とされ、「音部」と書かれることもあったと言う。
 東北には他にも青森県東北町や岩手県紫波町に「乙部」の地名があるそうだ…。

 と言ったところ。乙部の記事は初めてなので、説明させていただきました。こういうのは最初が肝心。
 ここからは、いつものように墓地と家紋のお話に移りたいと思う。
 今回の調査地点は乙部町三ッ谷地区。典型的な磯海岸地帯であり、南に穴澗岬、北に安山岩の柱状節理で有名な鮪ノ岬(しびのみさき)が位置する。切り立った海岸段丘を背にして、浜に一筋の街と往来が形成され、地名の由来はその地形を反映したアイヌ語の「モトイヤ(湾曲した浦・陸地)」とされている。
 地内には「能登の水」という名水が湧いている。明治19(1886)年の『北海道巡回紀行』の中には、この土地の開基は不明だが、村の旧家である星山杢左衛門の祖先杢衛門が加賀国能美郡串村から移住し、漁業に従事したとの伝えがあるという記述があり、「能登の水」の由来もそのあたりと関係あるのかもしれない。
 墓地は二ヶ所存在するが、いずれもごく小規模で、能登の水へ向かう山道の脇に存在する。 

 まず一ヶ所目。調査中ずっと山鳩の鳴き声が響いていた。
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・鶴の丸
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 鶴の丸 だとは思うのだが、やたら首が太く、もしかすると鳩かもしれない。
 使用家は米田さん。

 他も丸に二つ引や梅鉢などめぼしい家紋は見受けられないが、珍名字を一つ発見する。
陳祐(じんすけ)(じんゆう)
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 一見、よくわからない珍名字だが、「陣祐」であれば石川県・福井県を中心に見られる苗字であり、これはその派生苗字であろう。「陳祐」自体も同じ地域でわずかながら存在する。移住者の子孫と考えられる。


 さて、二ヵ所目 こちらも小規模な墓地で、めぼしい家紋は少ない。
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ふとしたところに笏谷石が使われているのを見ると、かつての日本海航路による交易を意識する。
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・備前蝶(鎧蝶)
DSC_0617 鎧蝶 備前蝶の派生か 備前岡山藩家の替え紋
 備前岡山池田氏の家紋として有名な蝶家紋。
 ここでの使用家は長岡さん。

 今回調査した墓地の位置はこちら。