函館市内中心部から旧椴法華村の恵山岬へ向かう途中、旧戸井町と旧恵山町の境付近に旧道らしいものとトンネルの遺構が見える。
これは、かつて旧戸井町と旧恵山町をつないでいた日浦(ひうら)海岸道路の跡だ。
北海道渡島半島の南端部、戸井村と尻岸内村(現在の函館市旧戸井町と旧恵山町)も、道路開削が遅れた場所の一つだった。
以下の図は、渡島半島および旧戸井町と旧恵山町の境界附近、通称「日浦海岸」の位置図である。(国土地理院、電子国土webより)
渡島半島の沿岸部は火山活動の影響で、切り立った断崖絶壁が続く所がいくつも存在する。そんな場所を人が歩くのは困難で、尻岸内村やそのさらに東の椴法華村の村民たちが函館方面へ向かうには船を使うか、内陸を山越えするかのどちらかを使うに限られていた。
明治末期には西隣の戸井村まで乗合馬車が、大正10(1921)年には乗合自動車の運行が開始され、尻岸内村住民の道路開削を望む声は日に日に増していった。
大正12(1923)年、やっとのことで戸井・尻岸内間の道路工事が着工したが、完成したのはその中でも函館から最も近い戸井村原木(はらき)地区までの区間のみだった。原木から尻岸内村日浦地区の間には日浦岬という崖が2㎞ほど続く場所があり、この区間の工事にはとてつもない労力と予算がかかることが予想されたからだ。
これは、かつて旧戸井町と旧恵山町をつないでいた日浦(ひうら)海岸道路の跡だ。
- 日浦海岸道路の概要と位置
北海道渡島半島の南端部、戸井村と尻岸内村(現在の函館市旧戸井町と旧恵山町)も、道路開削が遅れた場所の一つだった。
以下の図は、渡島半島および旧戸井町と旧恵山町の境界附近、通称「日浦海岸」の位置図である。(国土地理院、電子国土webより)
渡島半島の沿岸部は火山活動の影響で、切り立った断崖絶壁が続く所がいくつも存在する。そんな場所を人が歩くのは困難で、尻岸内村やそのさらに東の椴法華村の村民たちが函館方面へ向かうには船を使うか、内陸を山越えするかのどちらかを使うに限られていた。
明治末期には西隣の戸井村まで乗合馬車が、大正10(1921)年には乗合自動車の運行が開始され、尻岸内村住民の道路開削を望む声は日に日に増していった。
大正12(1923)年、やっとのことで戸井・尻岸内間の道路工事が着工したが、完成したのはその中でも函館から最も近い戸井村原木(はらき)地区までの区間のみだった。原木から尻岸内村日浦地区の間には日浦岬という崖が2㎞ほど続く場所があり、この区間の工事にはとてつもない労力と予算がかかることが予想されたからだ。
結局、日浦まで道路が伸びたのは昭和3(1928)年となった。開通式当日は日浦岬付近の岩根橋で、渡島支庁長や土木事務所長、各村長、村会議員、青年団員など百余名が参加し、道路を海上から視察した。当時、その様子を取材した新聞記者によれば、道中は崩れやすい岩盤をくり貫いたトンネルが7ヶ所にも及び、整備されたとはいえ九州の耶馬渓を髣髴とさせるほどの荒々しい光景が広がっていたそうで、当時の渡島支庁の土木事務所長をして「(渡島)管内随一の難工事」と言わしめたという。
こうして、住民の間にも喜びが広がったが、それもつかの間、昭和8(1933)年にはこの道路の改修工事請願が陳情される。崩れやすい柱状節理の上に通した道路はすぐに陥没し、法面やトンネルの天井からは剥離が相次いだのだ。
やがて、時代は太平洋戦争へ進み、もはや改修工事どころではなくなっていく。
次にこの道路が見直されるのは国道昇格を目前に控えた昭和44(1969)年のことになる。
やがて、時代は太平洋戦争へ進み、もはや改修工事どころではなくなっていく。
次にこの道路が見直されるのは国道昇格を目前に控えた昭和44(1969)年のことになる。
当時、既に日浦海岸道路は道幅も安全性も時代遅れになっており、日浦から原木へバイパスを掘削することになった。これが現在の日浦トンネルで、昭和48(1973)年に完成して国道278号線とされた。
一方で旧道となった日浦海岸道路は両端部を漁業者や採石業者が使うのみになり、ほかの大部分の区間は廃道となった。
ピンク色の線が現在の国道278号線と日浦トンネル、青い線が廃道区間となった日浦海岸道路である。(道中待ち構えるトンネルや橋の位置も足した。参考にどうぞ)
私がこの廃道を初めて見たのは、戸井線という未成線を取材したときだった。くわしくはこちら:「2.8キロ向こう側 -戸井線-」 http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51715451.html
原木地区の岬の先端部に洞穴のようなものを見つけたのだ。
一方で旧道となった日浦海岸道路は両端部を漁業者や採石業者が使うのみになり、ほかの大部分の区間は廃道となった。
ピンク色の線が現在の国道278号線と日浦トンネル、青い線が廃道区間となった日浦海岸道路である。(道中待ち構えるトンネルや橋の位置も足した。参考にどうぞ)
私がこの廃道を初めて見たのは、戸井線という未成線を取材したときだった。くわしくはこちら:「2.8キロ向こう側 -戸井線-」 http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51715451.html
原木地区の岬の先端部に洞穴のようなものを見つけたのだ。
磯の岩場伝いに近くまで行ってみるとそれは紛れもなく人の手で掘られたトンネルであり、赤く錆びついたロックシェードの残骸が岩の縁に残っていた。興味を惹かれたものの、直接そこへ至るには護岸上の雑草が生い茂った道を経由しなければならず、その先も一体どうなっているのかまったく不明であったため、情報を集めてから日を改めて取材しようと思ったのだった。
後にそれが40年以上も前に廃道になった旧道だとわかったのだが、相当酷い荒れ方をしているらしく、探索には覚悟がいるとのことだった。
何しろ、開削したての頃でさえ「すみません改修工事してください」という請願が行われるような道だ。それが人の手を離れて半世紀近い時間が経っているとすれば、いつ足場が崩れてもおかしくないような状態になっていることは簡単に予想がつくわけで、探索に踏み切るまでにはかなりの時間と覚悟を要することになった。
何しろ、開削したての頃でさえ「すみません改修工事してください」という請願が行われるような道だ。それが人の手を離れて半世紀近い時間が経っているとすれば、いつ足場が崩れてもおかしくないような状態になっていることは簡単に予想がつくわけで、探索に踏み切るまでにはかなりの時間と覚悟を要することになった。
そして、予想の通りそこには衝撃の光景が広がっていたのである…
- 探索
道中にある、旧戸井町の汐首岬は津軽海峡の最短部分にあたり、肉眼で対岸の建物を見ることができる。下北半島まで約17.5㎞。直線距離で東京駅から狛江市まで行くくらいとか、札幌駅から江別駅まで行くくらいだ。
なかなか風光明媚な場所だ。
ちなみに、この場所の背面には先述の旧戸井線汐首橋脚がある。
汐首岬から旧戸井町市街を越え、現日浦トンネル手前まで行くと、右脇へそれる小さな道が海岸線沿いに続いている。これが旧道、日浦海岸道路の入口となっている。
今回は旧戸井町側から廃道・日浦海岸道路(約2㎞区間)を進み、途中にある7つの隧道と1つの橋を確認し、反対側の旧恵山町側に到達。そこからは新道の日浦トンネルを戻って、出発地点へ帰るルートを取る。
では、さっそく行こう。
現国道と旧道の分かれ道付近から、函館市街方面。
凪の晴れた朝だった。
地元の漁師さんが磯舟を揚げるための斜路があった。戸井町側で現在も使用されている場所はこれくらい。
全部を踏破する者なんぞ、今では我々廃マニアくらいだ。
向こうに薄く見えるのは本州下北半島。
訪問当時は雪も溶けてすぐの頃だったので歩きやすかった。
冒頭で紹介したとおり、夏場はイタドリやススキが生い茂る野生の王国と化しているので、覚悟推奨。
もうすぐ7つあるうちの最初のトンネル。原木一号隧道が見えて来るはずだ。
横を見ると磯が引いている。カニがいそう。
美しい景色と、懐かしい磯の香りを前に危険を忘れそうになっていた私。
しかし、そこに廃道の強烈な洗礼が待ちうけていた。
落石がこんにちは。
大きさがわかりにくいが、かるく手のひら2つ分はある。
これでも小さい方で、上の岸壁から落ちて来た石が大小問わずゴロゴロ落ちているのだ。
道中の上空は常にこんな感じである。
先述したとおり、この付近は火成岩の剥がれやすい地層がむき出しになっている。
自分の頭の上に、先ほどのような石が落ちてこない保障はどこにもないのだ。この日、ヘルメットどころか手袋すら忘れて来た自分の身を案じ始めるには遅すぎた。
だが来てしまったには仕方がない。どうか事故が起きないように祈りながら、注意深く歩みを進める。
(過去の自分ではあるが、なんと危機管理意識が低かったことよと今にしてみれば思う)
法面に張られた金網が岩の重みに耐え切れず、破れてだらりとぶら下がっていた。生きて帰って来られるか本気で心配になる。
さて、見えてきた。冒頭で紹介した写真にも写っていた隧道、 原木一号隧道である。
竣工は昭和2年、長さ6m、最大高さ及び幅は4m。
では、さっそく行こう。
現国道と旧道の分かれ道付近から、函館市街方面。
凪の晴れた朝だった。
地元の漁師さんが磯舟を揚げるための斜路があった。戸井町側で現在も使用されている場所はこれくらい。
全部を踏破する者なんぞ、今では我々廃マニアくらいだ。
向こうに薄く見えるのは本州下北半島。
訪問当時は雪も溶けてすぐの頃だったので歩きやすかった。
冒頭で紹介したとおり、夏場はイタドリやススキが生い茂る野生の王国と化しているので、覚悟推奨。
もうすぐ7つあるうちの最初のトンネル。原木一号隧道が見えて来るはずだ。
横を見ると磯が引いている。カニがいそう。
美しい景色と、懐かしい磯の香りを前に危険を忘れそうになっていた私。
しかし、そこに廃道の強烈な洗礼が待ちうけていた。
落石がこんにちは。
大きさがわかりにくいが、かるく手のひら2つ分はある。
これでも小さい方で、上の岸壁から落ちて来た石が大小問わずゴロゴロ落ちているのだ。
道中の上空は常にこんな感じである。
先述したとおり、この付近は火成岩の剥がれやすい地層がむき出しになっている。
自分の頭の上に、先ほどのような石が落ちてこない保障はどこにもないのだ。この日、ヘルメットどころか手袋すら忘れて来た自分の身を案じ始めるには遅すぎた。
だが来てしまったには仕方がない。どうか事故が起きないように祈りながら、注意深く歩みを進める。
(過去の自分ではあるが、なんと危機管理意識が低かったことよと今にしてみれば思う)
法面に張られた金網が岩の重みに耐え切れず、破れてだらりとぶら下がっていた。生きて帰って来られるか本気で心配になる。
さて、見えてきた。冒頭で紹介した写真にも写っていた隧道、 原木一号隧道である。
竣工は昭和2年、長さ6m、最大高さ及び幅は4m。
目の前で見るとかなり迫力がある。…というよりも落盤で埋もれた見た目が心臓に悪い。
試しに一つ石を持ってみると、火成岩そのもののざらざらした質感に加えて剥離面が鋭い。
こんな角張った石(というよりもう軽く岩)が頭の上に落ちてきたら確実に死ぬ…
一号隧道を反対側から。
ロックシェードらしき鉄製支持具も真っ赤に錆びつき、崩落した岩の衝撃に負けて無惨にも折れ曲がっている。
天井 亀裂が入りまくっている。
一号隧道と二号隧道の間からも津軽海峡が見える。岩山と岩山のスキマのような空間だ。
危険さとかけ離れた美しい光景に、自分が冥土にいるような感覚を覚え始める。
原木二号隧道。こちらも竣工は昭和2年。長さ11m、最大高さ3.5mに幅3.7m。
奥に一号隧道。
原木一号隧道から三号隧道はほとんど連続して位置している。
こちらは原木三号隧道。
長さ7mに最大高さ4m、幅は3.5mである。
真っ赤に錆びついたロックシェードの根元。
旧道に入ってちょうど100mほど。岩だらけの路盤を歩くにもだんだんと慣れて来た。
…が、三号隧道を出たところで足が止まった。 えっ、なにこれは。
いきなりそれまでの路盤が消え、崖っぷちのような状態になっているのだ。
どうやら波の浸食で護岸が崩壊し、道路を作っていた岩と土がまるごと失われてしまったらしい。
わかりやすい画像がこちら。およそ2mくらいの落差。
物好きの先人が拵えたロープを頼りに、今や磯浜となった道路の成れの果てへ降りる。(ただし、ロープが結ばれているのは例の錆びまくったロックシェードなので、過信は禁物)
全景がこんな感じ。
右端に見えるコンクリートの板みたいなものがかつての路盤である。自然の力は恐ろしい…。
ちょうど同じ場所の現役当時の様子が写真資料で残っている。
本当にこんな場所を昭和40年代までバスが運行していたというのが信じられない。
さて、降りたのはいいが、当然進むべき向こう側も切り立った断崖となっており、装備も体力も貧弱で、カメラも抱えた状態の自分では登ることが難しい。
よって、仕方なく波打ち際から磯の海苔が生えた岩を伝って進むことにした。海藻が茂っており、滑りやすい…。
ちなみに「日浦」の地名の由来はアイヌ語の「フラウエン」で、意訳すると「海藻が浜辺に打ち寄せられて悪臭のするところ」になるという。(富良野の由来となる「フラヌイ」とほぼ一緒)
生まれも育ちも海の目の前だったからかは知らないが、磯臭いのは好きなので大歓迎である。
やっと路盤が復活したと思いきやこれだ。死が近い。
一号隧道付近の金網の洗礼がもはや可愛く見えて来る。
浜と言っても砂浜ではなく、玉砂利が打ち寄せられているところが荒磯感まるだしである。
足の裏が痛くなって来る頃に、やっと見えて来た。原木四号隧道だ。
一号~三号と比べるとそこそこ長めのトンネルだ。
総延長は23m。最大高さ4m、幅は3.5m。
なお、これ以降のトンネルはすべて竣工が昭和3年となる。
ロックシェードはもはや完全に崩壊。
人工のトンネルとは思えない見た目。
岩窟か何かか?
そして、隧道内の岩盤に明らかな嵌入が見える。
そりゃ工事も長引くわな…。
四号隧道を出たところ。上空。
こんなところ岩が落ちてこない方がおかしい。
聞こえるものは潮騒だけで、海鳥の鳴き声すらしない。そして、この呆れかえるほど長閑で美しい光景。
ここは浄土か何かか。
そして、路盤はもちろんこんな状態。
シャレにならん。
基礎が陥没し路盤がガタガタに。堅いコンクリートがまるでスポンジかなにかのようにバキバキに折れている。
先ほどの三号隧道出口のような状態になる過程というわけだ。
だが、こんな状態でさえも平面の上を歩けるだけましな方なのだ。この路盤が残っている場所もあと数mで途絶え、またしても岩盤の上を直接歩かざるを得ない区間がしばらく続く。
これだけ見たら、磯へ降りるためのそういう構道に見えなくもない。
ちょうどいいので、本来ならばこう道があったであろうラインに色を付けてみる。
むしろ、よくこんな所を工事して道を作ったなと感動すら覚えてくる。
この道路が現役当時のことを知ってる人はまだ多く存命だろう。聴いておける今のうちにしっかり調べ尽くしておきたいものである。
上の地点から少し進んだ斜面から、崩壊した護岸の法面を見る。 接合された岩盤が剥がれ落ちた跡には怪しい模様が刻まれている。
蓮コラや蜂の巣が苦手な人はあまり見たくない画かもしれない。
というわけで、またしても波打ち際と岩の上を這って進む。やっとカモメの姿を見ることができた。
美しい… 実に絵になる。(危険が余りにも普通に存在しすぎて、妙な興奮が混じり始めているのであった)
砂の器(中居正広版)の広告カットにこういう画あったよなー。
道の続きが見えて来た。
そんな時に現れる、地面に穿たれた穴。
こんなバトル漫画みたいな光景、現実にあるんだな…。
コンクリートのはずなのだが、ウェハースか何かにしか見えない。
せめて鉄筋を入れておけば、少しは違っただろうに。
路盤自体が崩壊する道だし、意味ないか。
復活した道。
奥に見える島は、旧戸井町のシンボル「武井(むい)の島」
アイヌの伝説として、昔、ムイ貝(オオバンヒザラガイ)とアワビがお互いの領土を争い、この島を境界にして棲み分けるようにしたという話が残る。 町の古老によれば、今から30~40年前までは本当にその通り棲息地がハッキリ別れていたそうなのだが、海流や植生が変わったせいか最近ではアワビがいる場所が増えつつあるらしい。
(ここだけでなく、太平洋沿岸部。北海道では室蘭、ほか内地にも似たような話が伝わる)
さて、脱線もこれくらいにして、先に進もう。
落石によって崩壊しているのは他と変わらないが、今までのアーチ形ロックシェードと明らかに違う形をしている。そもそも地図では、この辺に原木第五隧道があるはずなのだが見当たらない。
データによれば、原木第五隧道は昭和41(1966)年頃に撤去されたとあり、このロックシェードはその代わりとして設置されたものではないだろうか。
また、当時の写真に以下のようなものがあるのだが、背景や位置取りから見て、第五隧道である可能性が高いため、掲載しておく。
気が付くと海面からそこそこ高さがあることに気が付く。
なるべく法面に近い方を歩いて越えようとするが、どうしても海岸に接近しなければならない部分もある。
岩が崩れたらおしまい。二時間ドラマも真っ青である。
それが現実となったのがこちら。路盤どころか、岩自体が崩れてちょっとした崖と化している。
先ほどの原木第三隧道と違って、命綱もない。
今更ながら「なんでこんなことしてるんだ…?」と自問しながら崖を這いつくばって降りる。
命の保障が無いSASUKEでもやってる気分だ。
とりあえず降りることには成功。
まだまだ先がある。原木第六隧道だ。
…なんか入口が狭く見えるぞ?
なんてところにトンネルを掘るんだ。
近づいて見て合点がいく。落石が入口に集中して埋まりつつあるのだった。
振り返るとこんな光景。
釣りに来たら楽しそうですね(白目)
第六隧道内部。
43mの長さがあり、旧道内では最長。
地下水が湧いている。
なんだかこのトンネル、随分波の音が近い。それに中で光が漏れているような気がするんだが…
なるほど、こいつか。
なんと、トンネルの途中に大きな亀裂が走っており、海と繋がっているのだ。海蝕洞の類だろうか。
きちんと護岸工事がなされているため、廃道となった後に崩れてこうなったのではなく、現役当時、もしかすれば開通当時からこうだった可能性もある。
青い海が見える洞窟めいたトンネル。当時、利用していた人々の目もきっと楽しませていたであろう。
薄暗いトンネルの中で青い光を放つ波と潮騒の音を聴く。その神秘さに、旧道に入ってから緊張続きだった心に幾ばくかのゆとりが生じる。(もちろん、天井から岩盤が今にも崩落してくる可能性があるのだが)
この世の物ならざる、素敵で恐ろしい時間だった。
トリップタイムを終えて、第六隧道を出…た瞬間これか。
海が護岸を打ち壊して道を飲み込み始めている。
強烈な光景を前に、白昼夢じみた気分も吹き飛ぶ。
それでも第六隧道~第七隧道間は比較的路盤が残っているほう。
原木第七隧道。延長17m、最大高さ、幅共に4m。
7つのトンネルのうち、一番当時の姿がまともに残っているように見える。
第七隧道付近は特に柱状節理が発達しており、一種の石積み建築のような趣があって非常に美しい景観を誇っている。
第七隧道を出口側から。まさに岩山。
ちょうどこの隧道に差し掛かるバスの様子を捉えた写真が残っている。昭和40年代の、廃道間近頃に撮影されたものと思われる。
車体が思いっきり傾いてるんですがそれは…。
さあ、N(長く)K(険しい)T(戦い)を乗り越えて、ついに廃道区間の反対側出口が見えた。
真ん中に見える橋こそ、昭和3年の開通当時に式典が開かれた岩根橋であり、その向こうには封鎖ゲートがある。あれを渡れば旧恵山町。新道に合流して、出発地点に戻るだけだ。
岩根橋も当時の写真が残っている。これは昭和30~40年代の写真である。
何故かドサンコが通過中。
…が、その岩根橋こそが最後にして最大の関門だったのである。
これ本当に通れるんだろうな…。
見た目の上では普通のアスファルトだが、既に往時の頑丈さは失われ、横から見れば人一人が載っただけでバッキリ折れてしまいそうなほど薄くなっている。
加えてボロボロに痩せて崩れたコンクリートの橋脚。海面までは2mほどの落差がある。
小さな入り江ではあるが、割と深い。
自分一人ならいざ知らず、機材を抱えた状態で落ちたらと思うと…。
おまけに、向こう側の橋脚は半分ほど崩れており、不安定な岩石とコンクリートが積み重なっていてとても飛び越えられず、結局渡るのを断念。
2㎞弱の悪路を歩いて帰る破目になったのだった…。
向こう側は遠かった。
実はこの廃道を探索したのは最近ではなく、2014年の春である。
2012年や13年に踏破した方の情報があり、画像を見る限りはそこまで崩壊していないように見えたのだが、現地の様子はそれから明らかに崩壊が進んでいた。たった1,2年間で何があったのだろう。
また、当時の私は軽い高所恐怖症を引きずっており、なかなか一歩を踏み出せなかったのも仕方ないと思える。
試しに一つ石を持ってみると、火成岩そのもののざらざらした質感に加えて剥離面が鋭い。
こんな角張った石(というよりもう軽く岩)が頭の上に落ちてきたら確実に死ぬ…
一号隧道を反対側から。
ロックシェードらしき鉄製支持具も真っ赤に錆びつき、崩落した岩の衝撃に負けて無惨にも折れ曲がっている。
天井 亀裂が入りまくっている。
一号隧道と二号隧道の間からも津軽海峡が見える。岩山と岩山のスキマのような空間だ。
危険さとかけ離れた美しい光景に、自分が冥土にいるような感覚を覚え始める。
原木二号隧道。こちらも竣工は昭和2年。長さ11m、最大高さ3.5mに幅3.7m。
奥に一号隧道。
原木一号隧道から三号隧道はほとんど連続して位置している。
こちらは原木三号隧道。
長さ7mに最大高さ4m、幅は3.5mである。
真っ赤に錆びついたロックシェードの根元。
旧道に入ってちょうど100mほど。岩だらけの路盤を歩くにもだんだんと慣れて来た。
…が、三号隧道を出たところで足が止まった。 えっ、なにこれは。
いきなりそれまでの路盤が消え、崖っぷちのような状態になっているのだ。
どうやら波の浸食で護岸が崩壊し、道路を作っていた岩と土がまるごと失われてしまったらしい。
わかりやすい画像がこちら。およそ2mくらいの落差。
物好きの先人が拵えたロープを頼りに、今や磯浜となった道路の成れの果てへ降りる。(ただし、ロープが結ばれているのは例の錆びまくったロックシェードなので、過信は禁物)
全景がこんな感じ。
右端に見えるコンクリートの板みたいなものがかつての路盤である。自然の力は恐ろしい…。
ちょうど同じ場所の現役当時の様子が写真資料で残っている。
本当にこんな場所を昭和40年代までバスが運行していたというのが信じられない。
さて、降りたのはいいが、当然進むべき向こう側も切り立った断崖となっており、装備も体力も貧弱で、カメラも抱えた状態の自分では登ることが難しい。
よって、仕方なく波打ち際から磯の海苔が生えた岩を伝って進むことにした。海藻が茂っており、滑りやすい…。
ちなみに「日浦」の地名の由来はアイヌ語の「フラウエン」で、意訳すると「海藻が浜辺に打ち寄せられて悪臭のするところ」になるという。(富良野の由来となる「フラヌイ」とほぼ一緒)
生まれも育ちも海の目の前だったからかは知らないが、磯臭いのは好きなので大歓迎である。
やっと路盤が復活したと思いきやこれだ。死が近い。
一号隧道付近の金網の洗礼がもはや可愛く見えて来る。
浜と言っても砂浜ではなく、玉砂利が打ち寄せられているところが荒磯感まるだしである。
足の裏が痛くなって来る頃に、やっと見えて来た。原木四号隧道だ。
一号~三号と比べるとそこそこ長めのトンネルだ。
総延長は23m。最大高さ4m、幅は3.5m。
なお、これ以降のトンネルはすべて竣工が昭和3年となる。
ロックシェードはもはや完全に崩壊。
人工のトンネルとは思えない見た目。
岩窟か何かか?
そして、隧道内の岩盤に明らかな嵌入が見える。
そりゃ工事も長引くわな…。
四号隧道を出たところ。上空。
こんなところ岩が落ちてこない方がおかしい。
聞こえるものは潮騒だけで、海鳥の鳴き声すらしない。そして、この呆れかえるほど長閑で美しい光景。
ここは浄土か何かか。
そして、路盤はもちろんこんな状態。
シャレにならん。
基礎が陥没し路盤がガタガタに。堅いコンクリートがまるでスポンジかなにかのようにバキバキに折れている。
先ほどの三号隧道出口のような状態になる過程というわけだ。
だが、こんな状態でさえも平面の上を歩けるだけましな方なのだ。この路盤が残っている場所もあと数mで途絶え、またしても岩盤の上を直接歩かざるを得ない区間がしばらく続く。
これだけ見たら、磯へ降りるためのそういう構道に見えなくもない。
ちょうどいいので、本来ならばこう道があったであろうラインに色を付けてみる。
むしろ、よくこんな所を工事して道を作ったなと感動すら覚えてくる。
この道路が現役当時のことを知ってる人はまだ多く存命だろう。聴いておける今のうちにしっかり調べ尽くしておきたいものである。
上の地点から少し進んだ斜面から、崩壊した護岸の法面を見る。 接合された岩盤が剥がれ落ちた跡には怪しい模様が刻まれている。
蓮コラや蜂の巣が苦手な人はあまり見たくない画かもしれない。
というわけで、またしても波打ち際と岩の上を這って進む。やっとカモメの姿を見ることができた。
美しい… 実に絵になる。(危険が余りにも普通に存在しすぎて、妙な興奮が混じり始めているのであった)
砂の器(中居正広版)の広告カットにこういう画あったよなー。
道の続きが見えて来た。
そんな時に現れる、地面に穿たれた穴。
こんなバトル漫画みたいな光景、現実にあるんだな…。
コンクリートのはずなのだが、ウェハースか何かにしか見えない。
せめて鉄筋を入れておけば、少しは違っただろうに。
路盤自体が崩壊する道だし、意味ないか。
復活した道。
奥に見える島は、旧戸井町のシンボル「武井(むい)の島」
アイヌの伝説として、昔、ムイ貝(オオバンヒザラガイ)とアワビがお互いの領土を争い、この島を境界にして棲み分けるようにしたという話が残る。 町の古老によれば、今から30~40年前までは本当にその通り棲息地がハッキリ別れていたそうなのだが、海流や植生が変わったせいか最近ではアワビがいる場所が増えつつあるらしい。
(ここだけでなく、太平洋沿岸部。北海道では室蘭、ほか内地にも似たような話が伝わる)
さて、脱線もこれくらいにして、先に進もう。
落石によって崩壊しているのは他と変わらないが、今までのアーチ形ロックシェードと明らかに違う形をしている。そもそも地図では、この辺に原木第五隧道があるはずなのだが見当たらない。
データによれば、原木第五隧道は昭和41(1966)年頃に撤去されたとあり、このロックシェードはその代わりとして設置されたものではないだろうか。
また、当時の写真に以下のようなものがあるのだが、背景や位置取りから見て、第五隧道である可能性が高いため、掲載しておく。
気が付くと海面からそこそこ高さがあることに気が付く。
なるべく法面に近い方を歩いて越えようとするが、どうしても海岸に接近しなければならない部分もある。
岩が崩れたらおしまい。二時間ドラマも真っ青である。
それが現実となったのがこちら。路盤どころか、岩自体が崩れてちょっとした崖と化している。
先ほどの原木第三隧道と違って、命綱もない。
今更ながら「なんでこんなことしてるんだ…?」と自問しながら崖を這いつくばって降りる。
命の保障が無いSASUKEでもやってる気分だ。
とりあえず降りることには成功。
まだまだ先がある。原木第六隧道だ。
…なんか入口が狭く見えるぞ?
なんてところにトンネルを掘るんだ。
近づいて見て合点がいく。落石が入口に集中して埋まりつつあるのだった。
入口に取り付けられたロックシェードは完全に崩れきって、正面の強烈な波浪によって真っ赤に錆びついていた。…もう勘弁してください。
特徴的なのはこのロックシェードのみ木材による骨組がされていたことだった。
もしかすると、他のトンネルにも木材の補強などがなされていたのかもしれない。長年の劣化と自然の力によって流出し、今はもう確認がとれないだけで。特徴的なのはこのロックシェードのみ木材による骨組がされていたことだった。
振り返るとこんな光景。
釣りに来たら楽しそうですね(白目)
第六隧道内部。
43mの長さがあり、旧道内では最長。
地下水が湧いている。
なんだかこのトンネル、随分波の音が近い。それに中で光が漏れているような気がするんだが…
なるほど、こいつか。
なんと、トンネルの途中に大きな亀裂が走っており、海と繋がっているのだ。海蝕洞の類だろうか。
きちんと護岸工事がなされているため、廃道となった後に崩れてこうなったのではなく、現役当時、もしかすれば開通当時からこうだった可能性もある。
青い海が見える洞窟めいたトンネル。当時、利用していた人々の目もきっと楽しませていたであろう。
薄暗いトンネルの中で青い光を放つ波と潮騒の音を聴く。その神秘さに、旧道に入ってから緊張続きだった心に幾ばくかのゆとりが生じる。(もちろん、天井から岩盤が今にも崩落してくる可能性があるのだが)
この世の物ならざる、素敵で恐ろしい時間だった。
トリップタイムを終えて、第六隧道を出…た瞬間これか。
海が護岸を打ち壊して道を飲み込み始めている。
強烈な光景を前に、白昼夢じみた気分も吹き飛ぶ。
それでも第六隧道~第七隧道間は比較的路盤が残っているほう。
原木第七隧道。延長17m、最大高さ、幅共に4m。
7つのトンネルのうち、一番当時の姿がまともに残っているように見える。
第七隧道付近は特に柱状節理が発達しており、一種の石積み建築のような趣があって非常に美しい景観を誇っている。
第七隧道を出口側から。まさに岩山。
ちょうどこの隧道に差し掛かるバスの様子を捉えた写真が残っている。昭和40年代の、廃道間近頃に撮影されたものと思われる。
車体が思いっきり傾いてるんですがそれは…。
さあ、N(長く)K(険しい)T(戦い)を乗り越えて、ついに廃道区間の反対側出口が見えた。
真ん中に見える橋こそ、昭和3年の開通当時に式典が開かれた岩根橋であり、その向こうには封鎖ゲートがある。あれを渡れば旧恵山町。新道に合流して、出発地点に戻るだけだ。
岩根橋も当時の写真が残っている。これは昭和30~40年代の写真である。
何故かドサンコが通過中。
…が、その岩根橋こそが最後にして最大の関門だったのである。
これ本当に通れるんだろうな…。
見た目の上では普通のアスファルトだが、既に往時の頑丈さは失われ、横から見れば人一人が載っただけでバッキリ折れてしまいそうなほど薄くなっている。
加えてボロボロに痩せて崩れたコンクリートの橋脚。海面までは2mほどの落差がある。
小さな入り江ではあるが、割と深い。
自分一人ならいざ知らず、機材を抱えた状態で落ちたらと思うと…。
おまけに、向こう側の橋脚は半分ほど崩れており、不安定な岩石とコンクリートが積み重なっていてとても飛び越えられず、結局渡るのを断念。
2㎞弱の悪路を歩いて帰る破目になったのだった…。
向こう側は遠かった。
実はこの廃道を探索したのは最近ではなく、2014年の春である。
2012年や13年に踏破した方の情報があり、画像を見る限りはそこまで崩壊していないように見えたのだが、現地の様子はそれから明らかに崩壊が進んでいた。たった1,2年間で何があったのだろう。
また、当時の私は軽い高所恐怖症を引きずっており、なかなか一歩を踏み出せなかったのも仕方ないと思える。
しかし、この2年間で羽幌炭砿竪坑櫓や田老鉱山、その他危険度が高い廃墟の探索を終え、心身ともに確実に探索能力があがっている。今の自分であれば必ず踏破できるはずだ。もし再訪することがあれば、その時こそ、この探索でなしえなかったことを完遂して戻って来たい。
さて、悪路を歩いて戻ることになったが、ここまで来たらやはり向こう側も見ておきたいので、車で日浦トンネルを越えてみる。(運動不足と予期せぬ復路にガタガタになった足腰は見ないふりをする)
こちらは旧道が今も使われ続けており、近代的な築港が整備されている。
採石業者が使っている関係上、廃道区間へのアプローチもとてもしやすい。
柱状節理が発達した岩山。
道すがら、なぜかお地蔵さんと祠が置かれていた。
交通安全を願ったものなのだろうか。それとも、海の安全か。この付近は昔から霊場としても名高いが…。
見えて来た。遠かった向こう側のケージである。
横の直線距離で約3m、縦で約2mの崩落箇所。
あの頃の私では渡れなかった…。ぐぬぬ。
リベンジの日を待つのじゃ。
(余談になるが、この廃墟こそ私がペンタックスの一眼に乗り換える前の最後に撮ったものとなる。今なら広角レンズもあるので、再訪時はもう少し見ごたえのある記録写真をお見せできることだろう)
最後に岩根橋周辺の当時の写真をあげて、今回は筆をおこうと思う。
史料のキャプションには
「僅かな岩肌の割目に根を張った、はい松、岩松等が岩面に浮ぶ風情を添える。附近一帯は海岸磯釣りの好適地が多く、魚族も豊富で多数の釣りマニヤ[原文ママ]でにぎわっている」
とあるが、当時40年後の様子を考え得た者がいただろうか。
こんな場所がかつて存在し、本当に使われていた。それがどれだけの人々の手間と苦労と願いによって成り立っていたか。
常に命の危険が隣り合わせのこの廃道は、自然の恐ろしさと美しさが同時に存在した。
さて、悪路を歩いて戻ることになったが、ここまで来たらやはり向こう側も見ておきたいので、車で日浦トンネルを越えてみる。(運動不足と予期せぬ復路にガタガタになった足腰は見ないふりをする)
こちらは旧道が今も使われ続けており、近代的な築港が整備されている。
採石業者が使っている関係上、廃道区間へのアプローチもとてもしやすい。
柱状節理が発達した岩山。
道すがら、なぜかお地蔵さんと祠が置かれていた。
交通安全を願ったものなのだろうか。それとも、海の安全か。この付近は昔から霊場としても名高いが…。
見えて来た。遠かった向こう側のケージである。
横の直線距離で約3m、縦で約2mの崩落箇所。
あの頃の私では渡れなかった…。ぐぬぬ。
リベンジの日を待つのじゃ。
(余談になるが、この廃墟こそ私がペンタックスの一眼に乗り換える前の最後に撮ったものとなる。今なら広角レンズもあるので、再訪時はもう少し見ごたえのある記録写真をお見せできることだろう)
最後に岩根橋周辺の当時の写真をあげて、今回は筆をおこうと思う。
史料のキャプションには
「僅かな岩肌の割目に根を張った、はい松、岩松等が岩面に浮ぶ風情を添える。附近一帯は海岸磯釣りの好適地が多く、魚族も豊富で多数の釣りマニヤ[原文ママ]でにぎわっている」
とあるが、当時40年後の様子を考え得た者がいただろうか。
こんな場所がかつて存在し、本当に使われていた。それがどれだけの人々の手間と苦労と願いによって成り立っていたか。
常に命の危険が隣り合わせのこの廃道は、自然の恐ろしさと美しさが同時に存在した。
「文明とは自然から勝ち取ったもの」
そんな、民俗学者の言葉を思い出さずにはいられなかった。
(終)
ほか、諸事情により名称公開を避けるもの 7点
そんな、民俗学者の言葉を思い出さずにはいられなかった。
(終)
- 参考文献
・函館市史編纂室/編 『函館市史 通説編第2巻』 函館市 1990
・函館市史編纂室/編 『函館市史 通説編第3巻』 函館市 1997
・戸井町史編纂委員会/編 『戸井町史』 戸井町役場 1973
・函館市史編纂室/編 『函館市史 通説編第3巻』 函館市 1997
・戸井町史編纂委員会/編 『戸井町史』 戸井町役場 1973
・尻岸内町々史編纂委員会/編 『尻岸内町史』 尻岸内町役場 1970
・恵山町史編纂室/編 『恵山町史』 函館市恵山支所 2007
・北海道道路史調査会/編 『北海道道路史1 行政・計画編』 北海道道路史調査会 1990
・北海道道路史調査会/編 『北海道道路史2 技術編』 北海道道路史調査会 1990
・北海道道路史調査会/編 『北海道道路史3 路線史編』 北海道道路史調査会 1990
・恵山町史編纂室/編 『恵山町史』 函館市恵山支所 2007
・北海道道路史調査会/編 『北海道道路史1 行政・計画編』 北海道道路史調査会 1990
・北海道道路史調査会/編 『北海道道路史2 技術編』 北海道道路史調査会 1990
・北海道道路史調査会/編 『北海道道路史3 路線史編』 北海道道路史調査会 1990
・菅江真澄/著 内田武志・宮本常一/編 『菅江真澄全集 第2巻』 未来社 1977
・『函館毎日新聞』
・『函館日日新聞』・『函館毎日新聞』
ほか、諸事情により名称公開を避けるもの 7点
私は少年時代の15年間を原木地区で遊びました。当時は危険という意識は全くなく釣りやウニとりなどに夢中でしたが、今はもうトンネルには一歩も怖くて入れませんね。(66歳ですから)
この旧道トンネルの浜は大潮の干潮時には1号トンネル手前から磯伝いで5号トンネル(鉄骨だけの)までは行けます。
今年7月4日大潮の干潮時に45年ぶりに目的の5号トンネルの沖の磯場から6号トンネル前の浜(ミニ湾のような)を眺めることができました。絶景ですよ。パワースポットのようです。
1号トンネルの浜からそれぞれの浜には楽しい思い出が一杯あります。(浦安市在住で毎年数回ほど、原木の自然を楽しんでいます)